「いってきます、おかあさん」
わたしはカバンを持つと、キッチンで洗い物をする後ろ姿に声をかけて玄関へ向かう。
「いってらっしゃい、レイ」
おかあさんがタオルで手を拭きながら振り返る。
「今日は夜勤だから帰れないわよ。夕飯のおかず、作っておくから」
「わかったわ」
おかあさんは髪の毛を金色に染めている。とてもお医者には見えないらしいのだけれど。
でも、今はお医者も足りないらしいし、おかあさんは腕の良い医者だと聞いているし。
「あ、レイ、ちょっと」
おかあさんが手招きする。
「なに?」
「コンタクト、曲がってる」
「え?」
おかあさんは手を伸ばすとわたしの顔に触れる。
「ちょっとそこに横になって」
おかあさんはわたしを椅子に座らせると、ポケットから目薬を出してわたしの目元にそっと触れる。
つめたい。
目薬が目に入って、瞼をぱちぱちさせてしまう。
おかあさんは指先を上手に使って、わたしの目に入ったコンタクトを直してしまう。
「これでいいわ」
「ありがとう」
毎日面倒だけど、仕方がないこと。
わたしはコンタクトがないと物がよく見えないし。
それより何より、わたしの目はウサギみたいに真っ赤な色をしてる。
だから、わざわざ黒い色のカラーコンタクトをはめている。
余所からの転入生であるわたしが、目の色のせいでいじめられないように、というおかあさんの気遣いなのだから。
それと、わたしは髪の毛も黒く染めている。なぜかわたしの髪の毛は水色かかった銀色をしているから。
セカンドインパクト世代に多い遺伝子異常らしいけれど、変わっていることに違いはない。
だから、なるべく目立たないようにというおかあさんの言葉に従っている。
わたしはカバンを持つと靴を履いてドアを開ける。
飾り気のないスチール製のドア。
わたしはドアを閉めると、廊下に目をやる。通勤に出かけるらしい人影がちらほらと見える。
何十年も前に作られた古いコンクリート造りのアパート。それがわたしたちの家。
でも、贅沢は言えない。サードインパクトで沢山の家が壊れてしまったから、仮設の家に住んでいる人も多いという。
以前、第三新東京市のあった箱根山地が大噴火して、大地震が日本中を襲ったらしい。それをサードインパクトとみんなが呼んでいる。
その時にたくさんの人が死んだり家を失ったりしたと聞いている。
でも、わたしはそのときの記憶がない。
わたしにはサードインパクトから逃れてきた避難民にまぎれていたことから後のことしか憶えていない。
そんなとき、わたしは今のお母さんと出会った。
だから、おかあさんは本当のお母さんじゃない。
でも、一緒に住み始めた時にそう呼んで欲しいと言われてから、そう呼ぶようになっている。
なぜお母さんと一緒に住むようになったかというと、いろいろあって。
お互い記憶がないもの同士の連帯感とでも言うのかしら。二人で住んだほうがいろいろと便利だという理由もあったけど。
おかあさんも記憶がないらしい。でも、仕事はできるらしいなので、お仕事に行っている。
今は、一人でも多くのお医者が欲しい時らしいから。
わたしはコンクリートの階段を降りて、アパートを出る。
朝の光に目を細める。でも、最近は季節が戻ってきているらしい。
以前は一年中夏だった日本に四季が戻ってきているのだそうだ。
だから、今朝の空気はもう肌にはだいぶ冷たく感じられる。
そろそろ冬にはいるのだそうだ。
わたしは学校への道を急ぐ。コンタクトを直していたせいで、少し遅れてしまったから。
道の両側にはまだまだ壊れかけた建物が多い。サードインパクトから一年がたっているのだけれど、復興は遅れている。
セカンドインパクトの痛手からさえ立ち直りきっていなかったのだから、無理もないのだろうけれど。
わたしの通う学校は第二新東京市立第三中学校。サードインパクトの後に流入してきた人口を支えるために作られた学校のひとつだそうだ。
手首の時計に目をやる。
「え?もうこんな時間?」
思ったより遅い時間になっているので、わたしは走り出した。
急がないと遅刻してしまう。
遅刻などしたら、目立たないようにというおかあさんの言いつけに背いてしまうし。
何人か生徒が同じように走っていく後ろ姿が見える。
きっとあの子たちも同じなのね。
そんなことを考えていたら、曲がり角から急に現れた人影に気づくのが遅れてしまった。
どんっ!
「きゃあっ!」
「うわっ?!」
いったー!
もろにぶつかった。おかげで、思わず尻餅をついちゃったし。
頭をぶつけて、痛いこと…。
痛さのせいで涙目になってる。ぼやけた視界の向こうに、男の子が同じように尻餅をついてるのが見える。
な、なんなの?あの子とぶつかったの?
頭をさすりながら、ふと目を降ろす。なんだか足がすーすーするような…。
「きゃっ?!」
スカートがめくれ上がってしまってる。あわてて直したけど、…見られた?
「ご、ごめん。だいじょうぶ?」
男の子がそう聞いてきた。
「もう!ちゃんと前見てよ!痛いじゃないの」
顔が熱い。これって痛いせいだけじゃあない?
「ご、ごめん!」
あたしは涙をぬぐいながら相手に目をやる。
え?
普通の男の子よね?
なのに、なに?
この胸の痛みは?
男の子もわたしを見つめている。
「え?きみ…」
なに?この感じ。
「その目…」
男の子の言葉に、思わず瞼に指を持っていってしまう。
涙のせいでコンタクトがずれた?
どうも視界がぼやけると思ったら。
あわててポケットから目薬を取り出すと、コンタクトに指を当てる。あせってるせいか、うまく戻らない。
「あ、だいじょうぶ?」
「なんでもないの。コンタクトしてないとなんにも見えないから」
「そうなんだ…」
男の子は起きあがると、あたしに近づいてきて顔を寄せてくる。
「あの、手伝おうか?」
「だいじょうぶ」
なんとか戻すことができたみたい。
「あ…、綾波?」
男の子はしばらくわたしを見つめていてから、そう言った。
「え?」
だれ?それ。
でも、なぜか懐かしいような響き。
「あ、ごめん…」
男の子もうろたえたような顔をしてる。
「わたし、そういう名前じゃないわ」
「そ、そう。ごめん」
立ち上がった私は、時計に目を落とす。
「大変!完全に遅刻だわ」
「え?!そうなの?」
「ええ。じゃあね」
それだけ言うと、わたしは一目散に走り出した。
あーん。完全に遅刻ぅ。
ふと気がついて振り返ると、男の子はそのまま私を見送っているようだった。
教室に駆け込むと、先生はまだ来ていなかった。
とりあえず、ほっとしたわ。先生に怒られるのはどうってことないけど、目立ちたくないから。
窓際の自分の席に座り、息をつく。
「どうしたの?今日は遅かったわね」
声に振り返ると、クラス委員の女の子が立っている。
「あ、ちょっと事故っていうか」
「え?車にぶつかったの?」
心配そうな顔。お下げ髪にした彼女を見ていると、なんだか見知った人のような気がしてしまう。
そんなはずないのに。
「ううん。人とぶつかったの」
「危ないわよ。走って来たんでしょ?」
「うん。でも、だいじょうぶだったから」
「そう。気をつけてね」
それだけ言うと、彼女は騒いでる男子のほうへ行ってしまう。
わたしは男子に注意をしている彼女をぼんやりと眺めながら、さっきの出来事を思い出していた。
まさか、あんなにいきなりぶつかるなんて。
やっぱり見られちゃったかな。
そう思うと、顔が熱くなってくる。
でも、なんだか懐かしい気がしたのは、なぜ?
優しそうな男の子だったけど。
そう思ったら、ますます顔が熱くなってきてしまった。
あわてて顔を窓の方に向ける。
「え?」
校庭を歩いてくる人影が見える。あれって、さっきの男の子?
もしかして、転校生?
ひょっとして、このクラスに来たりして。
まさかね。
そんなことになったら、わたしどんな顔していいかわからないもの。
え?
どんな顔していいかわからない?
なんだか、懐かしい言葉。
どうして?
でも、わたし、誰かにそう言ったことがある。
そして、そのとき確かその子はこう言ったはず。
「笑えばいいんだよ」
教室のドアが開いて、先生が入ってくる。
そろそろ定年間近い、おじいちゃん先生。でも、怒るとけっこう怖い。
「おはよう、みなさん。では、出席をとります」
やっぱり転校生はこのクラスじゃなかったのね。
ほっとしたけど、なんだかちょっとがっかり。
「赤木さん」
わたしね。
「はい」
わたしは自分の名前すら憶えていなかった。いえ、持ち物から名前はわかったのだけど、名字がわからなかった。
だから、おかあさんと同じ名字を名乗っている。
おかあさんも自分の名前を忘れていたらしいけれど、コンピュータバンクに記録が残っていたとかで、名前が判明したらしい。
なんだか、指紋やら網膜やら、ややこしい検査をしたらしいけれど。
でも、一緒にいろいろな資格の記録もわかったらしく、おかげで仕事をすることができている。
でも、おかあさんはよく笑いながらこう話してる。
「でも、自分がそんな人物だなんて全然自覚ないのにね。赤木リツコ博士ですって、このあたしが。変な感じよね」
おかあさんはそう言うけど、おかあさんはやっぱりすごい人だと思う。
普通だったら、記憶がないというだけで不安で仕方ないはず。なのに、そんなことそぶりも見せないでほかの人のために働いているのだもの。
ぼうっとしているうちに出席確認が終わったらしい。
先生が何か話している。
「…ということで新しい友だちが増えます。仲良くしてください」
え?転校生なの?
「入ってきなさい」
先生が教室のドアに向けて言っている。
「失礼します」
ドアを開けて入ってきたのは、やっぱりさっきの男の子だった。
だいぶ緊張してるみたい。
「碇、シンジくんです。彼は今までずっと入院していました。サードインパクトで怪我をしたのです。ですから、この一年学校に行ってません。しかし、同じような人はこのクラスにもたくさんいますから、気にすることはないですよ。えー、では自己紹介をしてください」
「はい」
男の子は教壇の前に立つと、自己紹介を始めた。
でも、わたしは途中から先生の言うことを聞いていなかった。
男の子の名前。
碇、シンジ?
聞いたことなんかないはずなのに、なんなの?この胸の高鳴りは。
心臓がどきどきして、でも、胸の奥がきゅうんって痛い。
なんでなの?
とても懐かしくて、それでも悲しくて、どうしていいかわからない。
「あれ?」
いつの間にか視界がぼやけてしまっている。
目のまわりをこすってみる。
「涙?」
変なの。勝手に涙が出てくるなんて。
気がつくと、男の子が不思議そうな目をしてわたしを見つめていた。
続きます