わたしはどきどきしながら道を歩いていた。
それはそう。
だって、男の子と手をつないで歩くなんて、初めてのことだもの。
多分、初めてのことだと思う。
もしそんなことがあったとしても、憶えていないのだから同じことだと思うし。
「あ、あのさ…赤木」
「レイ」
「レ、レイ」
碇君は赤くなりながらそう言い直した。
「くす…」
「言わせておいて笑うなよ」
「ごめんなさい」
「いいけど。あのさ、赤…レイって、コンタクトしてる?」
「え、ええ」
「朝、目が赤かったような気がしたけど」
「目、悪いから」
うそ。ただのカラーコンタクト。
「あ、そうなんだ」
碇君は頷いてから、また前を向いて歩き続ける。
わたしをあまり見てくれない。でも、ちらちらと視線を向けてくるのを感じる。
なんだか、嬉しい。
どうしてこんなに嬉しいの?
初めて会った男の子なのに。
それに加えて、手なんかつないでしまっている。
もし誰かに見られたら、きっと何か言われるに決まっているけれど。
でも、かまわない。
そんなことを考える自分がいるなんて、なんだか信じられないくらい。
「あ、あのさ…」
自分の考えにひたっていたせいか、声をかけられて少しびっくりしてしまった。
「僕は、こっちだけど」
碇君はいったん行きすぎた交差点の別の道を示している。
わたしとは反対側なのね。
「いっしょに行っていい?」
「え?でも、レイはこっちなんだろ?」
「ええ。でも、碇君の家、どこだか知りたい」
「そ、それはかまわないけど。今、だれもいないし」
「おうちの人、お仕事?」
「ん、まあ、家族って言うわけじゃないんだけど…」
わたしは首をかしげてしまった。家族と住んでいるのじゃないの?
「あ、どうでもいいよね。こんなこと…」
「碇君、家族と住んでいるんじゃないの?」
「あ、家族みたいなもんだよ。うん」
ちょっと変な感じがする。
でも、人それぞれ事情はあるだろうし。わたし自身だって、記憶がないのだし。
碇君はゆっくりと歩いていく。
わたしのために歩調を落としてくれているの?
道の両側に古い家が増え始める。
「おうち、こっちのほうなの?」
「あ、うん。なんだか古い家が多いよね。なんでも、旧市街だって聞いたから」
「そう。わたし、こっちへ来たことないの」
「そうなんだ。レイの家って?」
「向こうにある団地なの」
わたしはもと来たほうを示しながら言った。
「ふうん。あ、こっちだよ」
碇君は路地に入っていく。
両側はブロックの塀になっている。
なぜか、その塀の上に茶色のトラ猫が寝そべっている。わたしたちをじっと見ているのが、少し気になったりする。
路地を抜けると、別の大通りに出ていた。
「あのマンションなんだ」
「わ、すごいのね」
碇君の言ったマンションは最近できたばかりらしい大きな建物だった。
「それほどじゃないよ」
そう言うと、碇君はマンションの玄関に入っていく。
「あ、寄っていく?」
「え?いいの?」
「うん。大したことできないと思うけど」
「うれしい。行ってみたいわ」
わたしは碇君に続いてマンションの玄関を入った。
碇君はテンキーを操作してロックを解いていた。天井にはカメラがついてる。
なんだかすごく警備厳重なのね。
「あ、こっち」
碇君はエレベーターを示しながら言った。
「エレベーター付きなんて、すごいのね?」
「うん、まあね」
なんだか碇君はあまり嬉しそうじゃないみたい。
碇君はエレベーターを降りると、廊下に向かった。
歩いてすぐのドアが碇君の家だった。
「入って」
もう一回テンキーを操作して碇君がドアを開ける。
「おじゃまします」
玄関に入ったわたしは、目を丸くしてしまった。
入ってすぐの廊下から段ボールの箱がずらっと並んでいたから。
「あ、ごめん。まだ片づけ終わってなくて」
「え、ええ」
きっと引っ越ししてきたばかりなのね。
「こっちだよ」
碇君に続いて入ったのはどうやらリビングらしかった。
ここにもいくつも開いたままの段ボール箱が並んでいる。
「わたし、お邪魔だったかしら?」
「いいんだよ。どうせすぐには片づかないんだし」
壁際にコンピュータだけが早々と置かれているのに気がついた。壁からケーブルがつながっている。
「コーヒーでいい?インスタントだけど」
「あ、わたしがするわ」
「え?いいよ。じっとしてて」
「でも」
碇君に続いてキッチンに入る。
ここもまだ、ごちゃっとしたままだった。最低限の食器だけ出ているように見える。
「驚いたろ?きたなくて」
碇君がポットをコンロにかけながら言う。
「ううん。いつ引っ越ししてきたの?」
「一昨日なんだ」
それじゃあ、まだ片づいていなくても仕方ないわ。
「じゃあ、大変だったでしょう?すぐに学校なんて」
「そうでもないよ。あんまり使わない荷物ばっかりだし」
わたしは段ボール箱の中身を思い出していた。なんだか、書類やディスク類ばかりのように見えたけれど。
碇君は、カップを二つ取り出すと、テーブルに置いた。
棚からインスタントコーヒーの瓶を取ると、スプーンを使って粉をカップに入れている。
なんだかそういうひとつひとつの動きがすごくていねいな気がする。
「あ、ミルク入れる?」
「ええ」
碇君はポットのお湯をカップに注ぐと、テーブルの上にミルクポットとシュガーを置いた。
「ごめん。まだ、豆とか買ってなくて」
「いいの」
なんだかすごく本格的な気がする。碇君ってそういうことにこだわるのかしら。
「あ、どうぞ」
「いただきます」
わたしはカップのコーヒーに口をつけた。
「あつっ」
「だ、だいじょうぶ?」
「平気」
わたしはミルクをたっぷり入れると、もう一度カップを口に運んだ。
「おいしい」
碇君は嬉しそうな顔をしている。
「あ、何かお菓子があったかな…」
碇君はそう言うと、棚を開けたり閉めたりしている。
「ごめん。大した物ないや」
碇君はビスケットをお皿に出すと、並べてくれた。
「でも、赤…レイってさ、ずいぶん積極的なんだね?」
「どうして?」
「だって、ふつう初めて会った相手の家まで来ないんじゃ?」
「そ、そうね」
それは自分でも驚いてる。私自身、自分にこんな大胆さがあったなんて。
「図々しい女の子だと思ってる?」
「そ、そんなことないよ!そんなことない」
碇君はあわてたように手を振った。
「な、なんて言うか、さ。レイって昔から知ってるような気がして。だ、だからずいぶん会わなかったのが、久しぶりに会ったみたいな気がして。それで…」
「わたしも、わたしもそんな気がしてるの」
「え?」
碇君は驚いたような目をわたしに向けた。
「レイ、も?」
「ええ」
わたしたちは、そのまましばらく黙ってお互いの目を見つめ合っていた。
「碇君。わたし…」
「なに?」
「いいえ。なんでもないの」
わたしは何を言おうとしたのだろう?
自分が碇君をだましているような気がしているから?
それとも?
「僕は記憶がないって言ったろ。レイもそうだって言ったよね?」
「ええ」
「その、記憶のないときに、僕たちは会っていたのかもしれないね」
「あ…」
そうかもしれない。
わたしは、この街に来たときからの記憶しかない。
おかあさんがいろいろ調べてくれたけど、わたしが何者なのかとうとうわからなかった。
こんな特徴のある身体だから、調べればすぐわかると思ったのだけれど。
サードインパクトの混乱でデータがかなり失われたと聞いているし。
多分、わたしは第三新東京から出たことがなかったのだろう。
あそこのデータはほとんど失われたらしいから。
「僕たち、どんな知り合いだったんだろうね」
「そうね」
「恋人同士だったとか」
碇君はそう言ってから照れたように笑った。わたしはびっくりして何も言えなかった。
「ご、ごめん。冗談だよ」
「え、ええ…」
でも、そんな気もする。
すごく近しく感じるから。
もし、そうだったら、どんなに素敵かしら。
そう思ったら、顔が熱くなってきてしまった。
「そ、そろそろ帰った方がいいよ。送るから」
しばらくお互い沈黙したままだった後で、碇君が立ち上がりながら言った。
「え?ええ」
胸がどきどきしている。
いえ。ずっとそうだったのだけれど。
急にそれを意識し始めてしまったのだと思う。
碇君に送られて、玄関まで来ると、先にドアが開いてしまった。
「ん?お客さんかい?」
玄関から入ってきた男の人が、わたしを見ながら言う。
「赤木、レイです。おじゃましてます」
わたしはぺこりとお辞儀をした。
「あ、ああ。いらっしゃい。…赤木?」
男の人はわたしを驚いたような目で見ている。
髪の毛を肩までのばした、ちょっと変わった人。
「あ、青葉さん。早かったんですね」
「シンジ君。今日は片づけに早く帰るって言ったじゃないか」
「そ、そうでしたね」
「それにしても、もうガールフレンドができたのかい?さっそく招待してるとは隅に置けないな」
「そ、そんなんじゃないんです!」
「まあまあ。友達が増えるのは良いことだよ」
青葉さん?は笑いながら言った。でも、目は笑ってないような気がする。
「はあ…」
「それじゃ、わたしはこれで。失礼しました」
「ああ。また来ておくれよ。いつでも歓迎するから」
「はい。それじゃ、失礼します」
「あ、そこまで送るよ」
碇君が後を追ってくる。
「シンジ君。送り狼になるんじゃないぞ」
「そんなことしませんってば!」
青葉さんの言葉に、碇君はムキになったような声を出している。
わたしはそのやりとりに、さらに顔が熱くなったような気がしていた。
家に帰ると、わたしはキッチン椅子に座り込んでため息をついてしまった。
なんだか、まだ胸がどきどきしている。
結局、碇君はわたしの家の近くまで送ってきてくれた。
おたがい、ずっと黙ったままだったけれど。でも、嫌じゃなかった。
いっしょに歩いているだけで、なんだかとても満たされたような感じ。
どうしてこんな風に感じるのだろう。
やっぱり、碇君の言う通り、以前恋人同士だったのだろうか。
そう思ったら、また顔が熱くなってきてしまった。
「あ、ごはん、作らなくちゃ」
夕飯の準備をしながらも、わたしはなんとなくぼうっとしてしまっていた。
夕飯の準備が終わって、一人で食べ始めようとしたとき、お母さんが帰ってきた。
「ただいま、レイ」
「おかあさん?今夜は夜勤じゃなかったの?」
「そうなんだけど、ちょっと熱っぽいので帰らせてもらったの」
「え?大変。だいじょうぶなの?」
「大丈夫よ。薬ももらってきたし」
そう言いながら、お母さんは上着を脱いでいる。
「お母さん、お医者なのに、気をつけなくちゃだめよ」
「そうよね。どこでもらったのかしら。予防接種は受けてるのに」
「あ、何か食べる?」
「そうね。何か消化の良いものがいいわ」
「ちょっと待ってね。何か作るから」
わたしは立ち上がるとエプロンを着けてキッチンに向かった。
「ねえ、お母さん」
「なに?レイ」
「熱のほう、どう?」
「だいぶいいわ」
お母さんとわたしは並んで敷いた布団の中に入っていた。
もう、夜の11時をすぎている。
「さっき計ったら7度8分だったし。下がってきたわよ」
「いったい何度あったの?」
「さあ。8度5分くらいかしら」
そんなにあったら、倒れてしまうじゃないの?
「無理しないで」
「だいじょうぶよ。ありがとう、レイ」
「…」
わたしは碇君のことを話そうかどうか、迷っていた。
「あのね、お母さん」
「なあに?」
「ううん。いい」
「なあに?言ってごらんなさい」
「あのね、今日学校に転校生が来たの」
「そう」
「それでわたし、その子、知ってるような気がしたの」
「何か思いだしたの?」
「ううん。でも、そんな気がしたの」
「そう。なんて子?」
「碇、シンジ君」
「碇…?」
お母さんは急に黙り込んでしまった。
「お母さん?」
「あ、ああ。ごめんなさいね。急に頭が痛くなって」
「お母さん?だいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ。でも、変ね。急に頭が痛くなるなんて」
「お母さん」
「私もその子のこと知ってるのかしらね」
お母さんは笑いながら言ったけれど、わたしは笑えなかった。
「なんだか何か起こりそうな気がする」
「それはレイの予感?」
「わからない」
「そうね。もしかしたら、そうなのかもね」
お母さんはそのまま黙ってしまった。
「お母さん?」
「もう寝ましょう。お休み、レイ」
「お休み、お母さん」
わたしは目を閉じて眠ろうとした。
でも、なんだか心が騒いで、寝られそうな気がしなかった。
続きます