次の日、わたしは胸をどきどきさせながら学校への道を急いでいた。
学校へ行くことが楽しみだなんて、初めてかもしれない。
いつもは、なんとなく義務感のようなもので学校へ向かっていたのだけれど。
おかあさんの容態はだいぶ良くなったらしく、今朝は出勤すると言い出した。
「休んでいなくていいの?まだ完全に治ったわけじゃないでしょう?」
「もうだいぶいいし。昨日、無理やり帰ってきたから、他の先生に迷惑をかけてしまったわ。今日は行かないと」
「そう。無理しないでね。おかあさんに何かあったら、わたし…」
「だいじょうぶよ。レイは心配やさんね」
そう言っておかあさんは笑顔を見せてくれた。
「でも、レイがあたしのことを心配してくれるのって、なんだかすごく嬉しいわ」
おかあさんにそう言われて、わたしはおかあさんの背中に抱きついてしまった。
「あらあら。甘えんぼさんね、レイは」
でも、おかあさんはわたしの手を優しく撫でてくれた。
「はい、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
家を出がけに玄関から振り返って見たおかあさんは、なぜかこわばった顔をしていた。
すぐに笑顔にはなったのだけれど。
わたしは、おかあさんのその顔が気になってしまった。
どうしたのだろう。
おかあさん、何かしきりに考え込んでるようだったけれど。
教室へ入って、中を見回す。
碇君の姿は、ない。
少し早く来すぎたのかしら。
そんなことはないはず。
あと10分ほどでホームルームが始まるのだから。
席についてぼうっと入り口を眺めていたが、とうとう碇君は現れなかった。
どうしたのかしら。
病気かしら。でも、昨日はそんな様子はなかったし。
何か急用でもできたのかしら。
そんなことを考えているうちに先生がやってきてしまった。
「起立!礼!」
日直の子の号令でお辞儀をしてがたがたと席につく。
「おはよう。出席をとります。赤木」
「はい」
わたしはいつも呼ばれる順番が最初。名簿が音順になっているせいだけれど。
「碇は、と。休みだな」
碇君、やっぱり休みなのね。連絡があったのかしら。
どうして休みなのか気になる。先生に聞いてみようかしら。でも…。
迷っているうちにホームルームが終わってしまった。
なぜか、ひどくがっかりしてしまう。
「転校生、転校二日目から休みなんですか?」
男子生徒の一人が、先生に聞いている。
わたしは思わず耳をそばだててしまった。
「ああ。前の学校に書類をもらいに行ってる。午後には来るだろう」
「手続き済ませたんじゃないんですか?」
「まあ、いろいろあってな」
そう言うと、先生は教室を出て行ってしまう。
わたしはほっと息をついていた。
病気なんかじゃなかったのね。よかった。
「赤木」
気がつくと、女子生徒が二人、わたしのそばにやってきている。
「赤木、昨日、さっそく碇んちへ行ったんだって?やるわねえ」
「え?」
「マンションの中まで入ったんだって?積極的い」
誰かに見られていた?
考えてみれば、あれだけ堂々と一緒に帰ったんだし、無理もないことだけど。
「仲良くお手々つないで帰ったんだって?あんたって意外と手が早かったんだ」
「…」
「なんとか言いなよ。それとも、言えないようなことまでしてたの?」
「きゃはは。進んでるう」
わたしは眉を寄せて二人を見つめた。
「あなたたちには関係ないわ」
「なっまいきー」
「ちょっと顔がいいからって、いい気になるんじゃないわよ」
この二人、なにが言いたいの?
「わたしが碇君と仲良くするのが気に入らないの?」
「碇君だって」
「まるで恋人気取りねー」
なんだか、だんだん気分が悪くなってきてしまう。
「恋人じゃないわ。なれたら、…いいけれど」
「…」
「だ、大胆な発言ねー」
なんだか二人とも驚いたような顔をしている。
「そうかしら?」
「さっそく恋人候補宣言ってわけ?あんたって顔のわりにやるのねー」
なんだかどんどん気分が悪くなってきてしまった。
わたしはそっぽを向いて黙り込むことにした。
二人はまだ何か言っていたけれど、わたしは聞いていなかった。
「ちょっとあんたたち。いい加減にしなさいよ」
気がつくと、クラス委員の子が二人を追い払っていた。
「赤木、あんたもあんまり男子にべたつかない方がいいわよ」
「わたし、そんなつもりじゃないわ」
「あんたがそんなつもりじゃなくっても、そう見えるのよ。わかったら、少しおとなしくしてて。いい?」
わたしが不承不承頷くと、彼女は自分の席に戻っていった。
どうして第三者にあれこれ言われなくてはならないのだろう。
これはわたしと碇君の問題だと思うのに。
わたしは授業が始まっても、釈然としない思いにとらわれていた。
お昼休みに、席で本を読んでいると視線を感じた。
目を上げると、クラスの生徒や、よそのクラスの生徒もわたしのほうをうかがっていた。
「?」
訝しく思って立ち上がると、みんなぱっと目をそらしてしまう。
そのくせ、ちらちらとわたしのほうを盗み見ている。
なんだかそういうのって気分が良くない。
理由を聞こうと思って、一番手近の生徒に問いかけてみる。
「どうしてわたしを見ているの?」
「え?別に。見てないわよ」
「…」
他の子は?
「なに気にしてるのよ?見てないったら」
みんな見てないと言う。でも、確かに見ていたはず。
「おい、赤木」
男子生徒の一人が話しかけてきた。
「おまえ、昨日C組の不良を叩きのめしたって、ほんとか?」
そういえば、そんなこともあったのね。
わたしがこっくりと頷くと、男子生徒は大げさに驚いた。
「ほんとかよ?!赤木ってそんな風に見えないけど。拳法か何かやってるのか?」
「別に。そんなこともないけれど」
「そうなのか?三人の不良を病院送りにしたっていうけど、ほんとか?」
病院送り?
わたしはそんな乱暴はしてないはず。せいぜい手を振り払っただけなのに。
「わたし、そんなことしてないわ」
「だろうなあ。赤木って、そういうタイプじゃないもんな」
男子はしきりに首をひねっている。
「でも、そうなると、三人とも学校に来てないっていう理由がわからないなあ」
「学校に来てない?」
「まあ、あいつらのすることだから、学校に来なくても不思議はないけどなあ」
そのせいだったのね。
みんながわたしを遠巻きにして見ていたのは。
「ま、まあ見たやつの勘違いかもな。あの転校生、あいつらに絡まれてたんだって?」
「ええ」
「あの不良やっつけたの、ほんとは転校生じゃないのか?」
わたしは首をかしげた。
「そう、かもしれない。よく憶えてないの」
「やっぱり。そうじゃないかと思ったんだ。赤木が絡まれたところを転校生が助けた。そうなんだろ?」
よくわからないけれど、そういうことにしておいたほうがいいのかしら。
「それで、帰りにお礼を言いたくて待ってたんだろ?」
わたしが頷くと、彼は一人で大きく頷いていた。
「それでわかった。なんだ、あの転校生、自分で転んだなんて言ってたけど、やっぱりケンカした跡だったんだな」
そう言えば、この生徒が昨日碇君に話しかけていたんだわ。
「しかし、やるなあ、あの転校生。転校早々ケンカかよ」
なんだか碇君に変な評判が立ちそうだけれど、いいのかしら。
気がつくと、女子生徒も何人かわたしのまわりに集まっていた。
わたしはもう一度同じような話を聞かされ、同じような説明をしなければならなかった。
午後になって、碇君が現れるかと思って待っていたのだけれど、とうとう碇君は現れなかった。
なんだかひどくがっかりしてしまう。
そんな気分のまま、わたしは午後の授業を受けたのだけれど。
放課前のホームルームで先生がプリントを配りながらこう言った。
「だれか碇の分を届けてくれないか?委員長?」
「あのー、あたし転校生の家を知らないんですが」
「誰か知っている者はいないのか?」
クラスの何人かがわたしの方を見ている。
「わたし、知ってます」
気がつくと、わたしは手を挙げていてしまった。
「ん?赤木か?そうか、頼んだぞ」
プリントを渡されてから、なぜか頬が熱いのに気が付いた。
今までこんな風に目立った事なんてなかったのに。
でも、これで碇君の家に堂々と行けると思うと、胸がわくわくするような感じがする。
クラスの子の何人かがわたしのほうを見ながらくすくす笑っているけれど、気にしない。
そんなこと、碇君に会えることに比べたら、何ということもないもの。
わたしは碇君のマンションのドアの前に立って、胸をどきどきさせていた。
一回唾を飲み込んでからインターホンのスイッチを押す。
返事は…、ない。
いないのかしら?
もう一回押してみる。
それでも返事はない。
わたしはがっかりして踵を返した。
せっかく碇君に会えると思ったのに。留守なんて。
やっぱりどこかへ出かけてるのかしら。
前の学校って言っていたけれど。
碇君の前いた学校って、どこだったかしら。聞いた憶えはないし。
そんなことを考えながら少し歩き始めていると、後ろから声をかけられた。
「赤木?」
「え?」
「やっぱりそうだ。どうしたの?こんなところで」
振り返ると、碇君が不思議そうな顔をして立っていた。
「あ…」
碇君に会えた。
わたしは、ぽっと胸が暖かくなるのを感じていた。
「もしかして、僕に何か用?」
「あ、あの…。プリント」
わたしはそれだけ言うのがやっとだった。
あたふたと鞄を開けてプリントを取り出そうとするのだけれど、うまくいかない。
「あ、いいよ。こんなとこでなくて。あわてなくていいから」
わたしは何をやっているの? なんだか悲しくなってしまう。
やっとの思いでプリントを取り出すと、碇君に差し出した。
「はい。これ」
「あ、ありがと」
碇君はわたしを見つめながら笑顔になった。胸が奥がぎゅっとなるような笑顔だった。
「あ、あの…。少し寄っていく?昨日のまんまで散らかっているけど」
「いいの?」
「あ、赤木さえよければ」
「嬉しい」
わたしはいつの間にか笑顔になっていた。
碇君の家に通されて、またコーヒーをごちそうになった。
「ごめん。相変わらず汚いまんまで。昨日あれから少し片づけたんだけど」
わたしは家の中に目を向けた。確かに家の中に物は増えているけれど、段ボールが並んでいるのは相変わらずだし。
「いいの。わたし、邪魔してるみたいだし」
「そんなことないよ」
碇君はそう言ってくれるけれど、やっぱりわたしは邪魔をしてるとしか思えない。
でも…。
「あの、片づけるの、手伝っていい?」
「え?」
碇君はきょとんとしている。
「片づけるの、少しくらいなら手伝えると思うの。人数多い方がいいでしょ?」
「悪いよ。そんなこと」
「だめ?」
「だめっていうんじゃなくて。会って間もない女の子にそんなこと頼めないよ」
「そうなの…」
なんだか悲しくなってしまう。碇君にそういうふうに言われると。
「あ、だから、嫌とかっていうんじゃなくて。そんなことしてもらうの、悪いし」
「手伝いたいの。だめ?」
碇君の顔を見つめてみる。
「ほんとにいいの?」
わたしはこっくりとうなずいた。
「じゃ、じゃあちょっとだけ頼むよ」
「ええ」
わたしは笑顔で返事をした。
わたしは碇君にエプロンを借りると、それを着て片づけを手伝い始めた。
でも、このエプロン。誰のものだったのかしら。
碇君の?
まさか。
わたしは拭き掃除と小物の片づけを主にすることにした。
大きな物は碇君が動かしてくれた。碇君って、やっぱり男の子なのね。
段ボールの中の荷物を出して、どこに仕舞うか碇君に聞いて片づけていく。
「碇君、これは?」
「あ、そっちの棚の中」
碇君の指示は適切で、家の中のことがよくわかっている感じだった。
こういうのって、ちょっと意外というのかしら。
思ったより、片づけはずっと早く済みそうだった。
なんて言うのか、碇君との会話がわかりやすかったせいだった。
最小限のことしか話していないのに、お互いの意志疎通が楽というのかしら。
こんなことって、初めて。
おかあさんとだって、しょっちゅういろいろ話さないとわからないのに。
なんだか、少し嬉しくなってしまう。
いくつか目の段ボールを開けたとき、中の本の表紙に目が行った。
それは本というより、ファイルと言った感じのものだったけれど。
黒い拍子に、赤い色のマークだけが描かれたものだった。
半分に切られた葉っぱのような形に、NERVの文字。
「…?」
わたしは思わずそのマークを、まじまじと眺めてしまった。
初めて見たはずなのに、どこかで見たような気がする。
「どうしたの?」
わたしの動きが止まったのに気づいたのか、碇君が声をかけてくる。
「あ、なんでも…」
「そのファイル…」
碇君がわたしの手元に目を向けながら言う。
「興味あるの?」
「いいえ。ただちょっと…」
「ちょっと?」
「見たことがあるような気がしたの。気のせいだと思うけれど」
「そう…」
碇君は奇妙な目でわたしを見つめていた。
それは、不安と、何かの期待が入り交じったような、そんな感じを受ける目の色だった。
続きます