碇君の家を出る頃には、そろそろ暗くなりかけていた。
「送っていくよ」
碇君はそう言ってくれたけれど、片づけはまだ終わっていなかったし、まだ明るかったから断ることにした。
「だいじょうぶよ。まだ明るいし」
「そう?」
「ごめんなさい。もっとお手伝いしたかったけれど、おかあさんに夕飯作らないといけないから」
「赤木…、レイがご飯作ってるの?」
「ええ」
「偉いんだね。おかあさん、働いてるんだ?」
エプロンを脱いで玄関に向かうわたしを、碇君は送ってきてくれた。
「ええ。じゃあ、さよなら」
「あ、ああ…。今日は、ありがとう。嬉しかったよ」
碇君が笑顔でそう言ってくれたので、わたしも嬉しくなった。
「じゃ、また明日」
「ええ。また明日」
また明日。
素敵な言葉。甘くて、でもちょっと寂しい言葉。
でも、また会えるのだし。
わたしは碇君のマンションを出ると、一度だけ振り返った。
胸の奥がちょっと苦しい。
これが人を好きになるということかしら?
頬が熱くなっているのを感じる。
わたしは碇君が好きなのね。
さよならしてみて、よくわかった気がする。
夕方の風が熱い頬に心地よかった。
わたしは家に帰ろうと歩を早めた。
道路にはまばらにだけれど通行人がいて、みんな足早に歩いている。
わたしの歩いている先に、立ち止まっている人影がいた。
後ろ姿だったけれど、どうやら男子中学生らしい。制服を着ていたから。
わたしはあまり気に留めずに通り過ぎようとした。
1、2メートルに近づいたとき、その男の子が振り返った。
銀色の髪の毛が夕日を浴びてきらりと光った。
銀色の髪の毛?
その姿に、わたしははっとなった。
その男の子は血のように赤い色の瞳をしていたから。
男の子は黙ってわたしを見つめていた。
何の感情も浮かんでいない、静かな目だった。
赤い、瞳?
わたしと、同じ?
わたしは知らないうちに、足を止めて男の子と見つめあっていた。
どのくらいそうしていたのだろう。
男の子は少しだけ笑みを浮かべると、唐突に歩き去ってしまった。
後を追おうかととも思ったけれど、わたしの足は凍り付いたように動こうとしなかった。
夕飯の支度をしていると、おかあさんが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま、レイ」
「早かったのね?まだ具合悪いの?」
「だいじょうぶよ。でも、無理をしないように早めに休むことにしたのよ」
「そう…。すぐにご飯にするわ」
おかあさんが無理をしないでくれるのは嬉しい。
わたしのことを気遣ってくれるたった一人の人だから。
「今日はなあに?おでん?」
「柔らかいものがいいと思って」
「そう。ありがとう」
おかあさんが着替えている間に、わたしは夕飯の支度をした。
お鍋をはさんでテーブルに座る。
「「いただきます」」
両手を合わせておじぎをする。なんでこうするのか知らないけれど、そういうものだとおかあさんが言ったから。
食事をしながらいろいろお話しをする。
たいていは、おかあさんがいろいろなことを話してくれるのだけれど。
おかあさんは本当に物識りで、わたしはいろいろなことを教わった。
わたしは、普通に言われる常識というものをほとんど知らなかったらしい。
「レイってどんな育ち方をしたのかしらねえ」
おかあさんは呆れながらも、細々としたことを教えてくれた。
「でも、教科書的知識は年齢のレベル以上だし。レイってそういう教育を受けてきたのかしらね」
おかあさんはそう言うけれど、わたしにはよくわからない。
確かに学校の授業がわからないと思ったことはないけれど。
「レイ、レイ」
おかあさんに呼びかけられてはっとなった。
「どうしたの?ぼうっとして」
「なんでもないの」
「そう?」
おかあさんはいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「それでレイ、今日もその碇君の家へ行ったのね?」
「だって、わたししか碇君の家を知らなかったし。先生の用で行ったのだもの」
「あらあら、珍しいわね、レイがそんなにムキになるなんて」
おかあさんは笑いながら言った。
「ム、ムキになんてなってないわ!」
「はいはい。そういうことにしておきましょうね」
「もう…」
「でも、レイにも好きな男の子ができたのね」
「好き?」
「違うのかしら?」
おかあさんは優しい目をしていた。
「レイにそういう子ができたのね。嬉しいわ。ちょっと寂しいけれどね」
「嬉しい?でも寂しいの?」
「そうね。レイが大きくなっていることがね」
「わたしが大きくなると、嬉しいの?」
「そうよ。おかしいかしら?」
「ううん。おかしくない」
おかあさんは黙ってわたしを見つめたままだった。
寝る前におかあさんといっしょにお風呂に入った。
小さなお風呂場だから、二人で入るといっぱいになってしまうのだけれど。
でも、時間があるとおかあさんとわたしは、いっしょにお風呂に入るのが習慣だった。
「風邪気味なのに、だいじょうぶなの?」
「大丈夫よ。汗をかいているから気持ち悪いし。湯冷めさえしなければいいのよ」
おかあさんがそう言うのなら、そうなのだろう。なんと言っても、お医者さんなのだし。
「ねえ、おかあさん」
わたしは湯船に浸かりながら、洗い場のおかあさんに話しかけた。
「わたし、ずっと髪の毛を染めていないとだめなの?」
「どうしたの?急に」
「理由は、ないけれど」
わたしは今日出会った男の子のことを思い出していた。
「そうね。いろいろと大変だと思うけれど、もう少しだけ我慢したほうがいいと思うわ」
「もう少し?」
「あと1年か2年」
「どうして1年か2年なの?」
「そのころになれば、レイも自分で生きていけるようになるからよ」
「一人で?おかあさんはわたしと一緒にいてくれないの?」
なんだか急にお湯が冷たくなったような気がした。
「そうじゃないわ。あたしはレイと一緒にいるわよ。でもね、子供はいつか巣立つものなのよ」
「巣立つ?」
「そう、伴侶を見つけて、自分の人生を生きていくのよ」
「伴侶?」
なぜか碇君の顔を思い出してしまった。頬がかあっと熱くなる。
「あらあら。何を考えてるのかしら」
おかあさんは笑いながら身体にざっとお湯をかけた。
石鹸の泡が流されておかあさんの背中があらわになる。
おかあさんの背中には、真ん中に赤い痣がある。
5センチくらいの、まあるい痣。
不思議なのは、胸のほうにも同じような痣があること。
ちょうど胸を挟むように赤い痣があるなんて。
不思議に思って聞いたことがあるのだけれど。
「どうしてかしらねえ。あたしにもわからないのよ。記憶をなくしてる間にどこかにぶつけたのかしらね」
おかあさんはそう言うだけだった。
本当に、どうしてそんな痣があるのか憶えていないらしい。
なんだかそれ以上聞いてはいけないような気がして、そのままになっている。
「レイ。ちょっとよけて」
そう言っておかあさんも湯船に入ってきた。
お湯が盛大に流れ出していく。
「ふう。いい気持ち」
そう言いながらおかあさんは目を閉じている。
タオルにくるまれた金色の髪が、タオルからはみ出している。
その髪の毛を見ながら、わたしは初めておかあさんと出会ったときのことを思い出していた。
それは、わたしが初めて自分を意識した時のこと。
いえ、今ある記憶が始まったところと言うべきなのだろうか。
その時、わたしはすさまじい雑踏の中にぽつんと取り残されている自分を発見していた。
どうしてそんなところに自分がいるのか、さっぱりわからなかった。
必死で記憶を探ろうとしたのだけれど、何も思い出せなかった。
それどころか、自分が何者なのかすら思い出せないでいた。
その事に気づいたわたしは、パニックに襲われそうになった。
それまで人の流れに押されてなんとなく歩いていたのだけれど、急に立ち止まったので後ろから突き飛ばされてしまった。
「バカヤロー!急に止まるんじゃねえ!」
床に手をついて座り込んでしまったわたしに、そんな声が投げつけられた。
続いて、何か固い物をぶつけられた。どうやら、トランクか何かだったらしい。
「痛いっ!」
あたしはあまりの痛みに背中を抱き抱えて丸くなっていた。
「ちょっと!女の子が倒れてるじゃないの!」
あたしの背後でだれかが怒鳴っていた。
「あなたたち、どきなさい!」
次の瞬間、ぐいっと手をつかんで立ち上がらされた。
「あなたも!そんなところに座っていると、ケガをするわよ!」
見ると、金色の髪の毛をした女の人が怒鳴っていた。
女の人は、わたしを人の流れから外れたところに引っ張って行った。
そして、そこへわたしを放り出すと、どこかへ行ってしまった。
わたしは壁際にうずくまって、目の前を流れる膨大な数の人を眺めるしかなかった。
後で知ったところでは、そこは第二新東京駅の中央コンコースだった。
ちょうど第三新東京から避難してきた人たちの列車が着いたところで、みんな殺気だっていたらしい。
サードインパクトと呼ばれる大災害が起きた直後のことだった。
わたしは呆然と目の前を通り過ぎる人の波を見続けていた。
これからどうしていいかわからない。
何を、どうしようとしていたのかもわからない。
わたしはひたすらうずくまったまま、時間が過ぎるのに身を任せていた。
どのくらい時間がたったのか、少し人の流れがまばらになったとき、わたしは周囲を見回す気になった。
お腹がすいてきたのが理由だったのだけれど。
その時、私から5メートルほど離れたところに女の人が一人、壁にもたれかかっているのに気がついた。
金色の髪の毛をした女の人。
わたしをここへ引きずってきた人らしかった。
その時になって、初めてわたしはその女の人をゆっくり観察することができた。
女の人は、火のついてないタバコを口にくわえたまま、ぼんやりとした目を人の流れに向けていた。
白い色の長い服、後で白衣と知った、を羽織った姿が奇妙に浮き上がって見えた。
わたしはしばらく彼女を見つめていたらしい。
気がつくと、彼女は私に険しい目を向けていた。
わたしはあわてて目を正面に戻した。なんだか、とても恐そうな女の人に思えたから。
しばらく正面を見続けていたのだけれど、いよいよお腹が空いてきてしまった。
でも、どこへ行ったらいいのかもわからない。
わたしはうずくまったまま、ひたすら空腹に耐えるしかなかった。
「あなた、いつまでここにいるつもり?」
最初、その言葉が自分に向けられたものだとはわからなかった。
だから、ぼうっと前を見続けていたのだけれど。
「そこのあなた!あなたのことよ」
その声に、初めてわたしのことを言われているのに気がついた。
気がつくと、目の前にはだだっ広い空間が広がっているだけだった。
あれほどたくさんいた人が、すっかりいなくなってしまっていた。
「え?わたし?」
「あなた以外に誰がいるっていうの?」
女の人は、いらいらしたようにわたしのほうを見ながら行った。
「さっさと避難場所へ行きなさい。こんなところにいるんじゃないわ。追い剥ぎが出るわよ」
「追い剥ぎ?」
「追い剥ぎを知らないの?」
女の人は呆れたように首を振った。
「なんでもいいから、避難所へ行きなさい。そこなら寝るところと食べ物があるわ」
そう言われたとき、わたしのおなかがぐーっと鳴った。
顔が熱くなってしまい、そんな自分にうろたえた。
「避難所?」
「まさかあなた、避難所も知らないの?」
「わからない。何も思い出せないの」
わたしは頭を抱えたまま言った。
「何も思い出せない?記憶喪失?」
もう一度目を向けたわたしに、女の人は強い目を向けていた。
「本当に何も思い出せないの?」
「思い出せないの。わたしが誰なのかも」
「そう」
女の人はため息をつくと目を閉じた。
そうやって黙り込んでしまった女の人に、わたしは不安な目を向けていた。
「どうやら、あたしも記憶喪失らしいのよ」
しばらくしてからわたしに目を向けた女の人はそう言った。
「え?」
「あたしも、自分の名前もどこで何をしていたのかも思い出せないのよ。ここがどこで、どうしたらいいかはわかるのにね」
女の人は自嘲的な笑みを浮かべた。
「じゃあ、ここにいないで、したいことをしてください」
「なんだかそれも面倒なのよ。下手に自分が何者だか思い出したくない気もするし」
「え?」
「このままここで、のたれ死んでもいいけれど…」
女の人の横顔はひどく寂しそうだった。
「あ、あの?」
うろたえるわたしに女の人は笑いながら言った。
「なんだかそれすらもバカらしいし。どう?いっしょに何か食べる?どうやら、あたしはお金ならあるらしいわ」
「え?でも…」
「これもなにかの縁でしょ?お互い、記憶喪失どうし、いっしょに行く?あなたが良ければ、だけど」
わたしはしばらく考えたけれど、決心をつけると女の人のそばに行った。
「いっしょに、行きます」
「そう」
女の人は優しい目をしてあたしを見つめていた。
それがわたしとおかあさんの出会いだった。
「おかあさん」
わたしはおかあさんに呼びかけてみる。
「なあに?」
「おかあさん」
「なんなの?変な子ね」
髪の毛を乾かしながら、おかあさんはわたしを振り返る。
「呼んでみたかったの」
「そう」
おかあさんは笑顔を浮かべると髪の毛を乾かすのに戻った。
その時、ドアチャイムが鳴った。
「誰かしら?こんな時間に。レイ、見てくれる?」
「はい」
玄関ドアののぞき窓から外を見る。
アパートの管理人さんが立っている。
「管理人さんみたい」
「そう。開けてちょうだい」
ドアを開けると、そこには知らない男の人が二人立っていた。
いえ、一人は知っている。
確か、青葉さん。碇君といっしょに住んでいる人。でも、どうして?
「赤木博士はご在宅ですか?」
「はい?あの?」
丁重な言い方だったけれど、なぜか背中がひやっとするような感じがした。
「NERVの者です。赤木博士にご同行を願いに来ました」
続きます