「ネルフ?」
わたしは思わずおかあさんのほうを振り返ってしまった。
「レイ、管理人さんじゃないの?」
「それが、違うみたいなの…」
わたしはもう一度青葉さん(だっけ?)に目を戻した。
なぜか青葉さんがわたしを見る目は嫌悪感をにじませていた。
なんでそんな目で見るの?
なんだか、こちらまで嫌な気分になりそう。
「どうしたの?」
奥の部屋から、おかあさんが出てきた。
急いで上着を着てきたらしい。
「赤木博士、…お久しぶりです」
青葉さんはわたしに向けるのとはまるで違った態度をおかあさんに向けた。
「は…?どなたでしょうか?」
「とぼけないでください。あなたの部下だった青葉です」
おかあさんは困ったような表情を浮かべていた。
「申し訳ないですけれど、私はこの数年の記憶がないんです。ですから、そう言われましても…」
「しかし、診療活動はなさっている」
「技能的なことは思い出せるんです。でも、私がどこでなにをしていたのかはさっぱりなんです」
「そうですか」
青葉さんはあんまりがっかりした風でもなかった。
「それは追々思い出していただければよいと思います。改めてお願いいたします。我々の元に戻ってください」
「そう言われましても、今の私はお役に立てないと思います」
わたしはおかあさんの表情をうかがった。
おかあさんは毅然とした態度を崩さなかった。嘘をついているようにも見えない。
確かに、おかあさんは嘘をつくのか上手な人だけど、なぜかわたしにはそれがすぐにわかるから。
それは、ちょっとしたしぐさだったり、言葉の調子のせいだったりするのだけど。
そして、今のおかあさんは困惑はしていても、嘘をついている様子ではなかった。
「大丈夫です。記憶など、すぐに回復できます。今は良い薬もありますから」
青葉さんの言葉は、わたしに不快感を起こさせた。
なんとなくだけど、人を人扱いしていないような感じがしたから。
おかあさんもそう思ったのか、表情が険しくなった。
「私は今のままでも別に不自由しておりませんわ」
「失礼。ただ、自分は博士の復帰のお手伝いができればと思っただけでして…」
「私に何に復帰せよとおっしゃるのですか?」
「もちろん、NERV技術部長にです」
「私にそんな大役が務まるとも思いませんが?」
「ご冗談を。博士以外に誰につとまると言うんです?スタッフもほとんどの者が残っています。伊吹一尉も」
「伊吹?」
「以前の伊吹二尉です。博士が戻られることを心待ちにしておりますよ」
おかあさんは顔を押さえていた。
「おかあさん?」
「だいじょうぶよ、レイ」
おかあさんはわたしに弱々しい笑顔を見せた。わたしは胸がずきっと痛んでしまった。
「思い出していただけましたか?」
「い、いえ…。でも、何か思い出しそうな…。いえ、やっぱりだめみたいです」
「そうですか。お会いになれば思い出すと思いますよ。いかがです?一度お会いになっていただけますか?」
「今からですか?」
青葉さんは頷いた。
こんな夜中に出かけようというの?
なんだかとんでもないような気がする。おかあさんはまだ体調が良くないのに。
そうでなくても、非常識な気がする。
「申し訳ないけれど、ご要望には沿えそうもありませんわ」
おかあさんはきっぱりとした口調で言った。
「私には仕事がありますし、この子もいます」
おかあさんはわたしに目を向けながら言った。
「市民相手の診療所医師のことですか?失礼だが、博士はご自分の能力を無駄遣いなさっている」
「私がなにをどうしようと、私の自由のはずです」
「確かに。しかし、より博士の力を必要としているところがあるのに、それを無視なさるのはどうかと。それに…」
青葉さんはアパートの中に目を向けた。
「このような場所で暮らす必要もありません。かつてのNERVからの報酬はすっかり手つかずで残っております。普通に暮らすなら、一生遊んでいられるほどのはずです」
「私がそのネルフとやらに戻れば支払われる、ということでしょう?」
おかあさんは皮肉っぽく言った。
「致し方ありません。特例事項ですので。それに…」
青葉さんはわたしに目を向けた。
「こちらのお嬢さんに関しても、より良い生活環境を用意して差し上げられます。彼女の学校生活は決して平穏ではないようですから」
この人、何を言ってるの?
わたしの身辺を調査したっていうの? いつの間に?
「レイ、そうなの?」
「わたしは平気」
「気丈なお嬢さんですね。しかし、事実ですよ」
「レイ…」
おかあさんは心配そうな目をわたしにむけてきた。
「本当に、平気」
「そう…」
おかあさんは、青葉さんに目を戻した。
「少し考えさせていただけないかしら?いきなり決めろと言われても、すぐには決められませんわ」
「それはそうですね。では、明日の夜まで待ちます。我々もあまり時間に余裕があるわけではないので」
青葉さんの言葉に、おかあさんの眉が寄せられた。
「明日?ずいぶんせっかちなのね。気が短い人は女に嫌われますわよ」
「致し方ありません。本来なら、このままお連れするように言われて来たのですが。明日の夜まで待つというのは、精一杯の譲歩だとご推察ください」
「ありがたいことですわ」
「申し添えておきますが、万一にも逃亡などなさらないようにお願いします。博士の身辺は24時間体制で警護されておりますので」
「手っ取り早く監視と言ってくださってけっこうよ。ご心配なく。そんな無様な真似はしませんわ」
「さすが、赤木博士。それでは、明日の夕刻に、また」
青葉さんはぴっと敬礼すると、廊下を歩き去った。
「ちょっと待ちなさい」
「は?」
おかあさんの言葉に、青葉さんが振り返る。
「時間を決めてちょうだい。こちらにも準備があるんだから」
「そうでしたね。それでは、20時では?」
「けっこうよ」
「それでは、良いお返事をお待ちします」
青葉さんはもう一度敬礼すると歩き去った。
玄関ドアを閉めると、おかあさんはため息をついてダイニングの椅子に座り込んでしまった。
「おかあさん?」
「…」
お母さんは両手で顔をおおってうつむいている。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ、レイ」
おかあさんは顔を上げると、笑顔を浮かべようとして、失敗した。
「おかあさん、わたし…」
わたしはそこまで言って、次の言葉に詰まってしまった。
わたしは何と言ってあげればいいんだろう?
わたしは、どうしたらいいんだろう?
おかあさんが悩んでいるのははっきりしている。
わたしにできることは何なのだろう?
「わたし、おかあさんは、おかあさんの良いと思うようにすればいいと思う」
わたしのことで、おかあさんが困るのは見たくない。
「わたしのことなら気にしなくていいから」
「ありがとう、レイ。でもね…」
おかあさんは少し怒ったような顔をした。
「あたしはレイの母親のつもりよ。母親ってのはね、子供に責任があるの」
そう言ったおかあさんは、自分の言葉を噛みしめているようだった。
「そうね。ごめんなさい」
「いいのよ。レイ。あなたが心配することはないのよ。確かに困ったことではあるけど、きっとなんとかするわ」
わたしはおかあさんの言葉に嬉しくなった。
「ええ、おかあさんは強いもの」
おかあさんは困ったような笑顔を浮かべた。
「あたしはちっとも強くなんかないわ。もし強くなれたとしたら、それはレイのおかげよ」
「わたし?」
わたしはおかあさんの言う意味がわからなかった。
わたしはおかあさんにとって、お荷物でしかないはず。
おかあさんは一人で生きていける人だし、わたしを抱え込む責任なんてぜんぜんなかったはずなのに。
「どうして?わたしは何もできないわ」
「そうじゃないのよ」
おかあさんは立ち上がった。
「もう寝ましょう。明日のことは、ゆっくり考えればいいわ」
「え、ええ」
わたしはなんだか釈然としない気分でうなずいた。
わたしだってそんなに子供じゃないつもりだし。おかあさんに子供扱いされるのって、あんまり嬉しくない。
「不満そうね?」
わたしがふくれっ面していたのに気づいたのか、おかあさんは目を笑わせた。
「だって、ちゃんと説明してくれないんだもの」
「そうねえ。じゃあ、後はお布団の中でね」
「ちゃんと話してくれる?」
「ええ。だからもう寝ましょう?」
「はい」
わたしは不承不承うなずいた。
「ねえ、おかあさん。明日、そのネルフってとこへ行くつもりなのね?」
わたしは布団の中から問いかけた。
おかあさんの横顔を見ているうちに、そう思えてきてしまったから。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく…」
「そう」
おかあさんは天井を見つめている。
「本当に行くつもりなのね?」
「ええ。そうね」
「どうして?わたしのせい?」
「レイのせいじゃないわ。…そうね。しいて言えば、あたしの人生の区切りをつけるためかしら」
「どういう意味?」
おかあさんの言葉はわたしに不安感を引き起こした。
「心配しなくていいのよ。そうね、あたしは今まで過去を忘れて生きてきたわ。たまたま記憶をなくしたせいもあったけど。それを都合良く解釈していたのよ」
「どうして?それじゃいけないの?」
「あたしは過去に何かとんでもないことに関わっていたらしいわ。あちこちに残ったデータがそれを裏付けてるし」
「でも、それは過去のことでしょう?」
「そうね。だからといって、知らんふりもできそうにないのよ。なにより、あたし自身の気持ちが落ち着かないの。自分がいったい何者なのか?何をやってきたのか?やっぱりはっきりさせておきたいの」
おかあさんの言葉は、わたしが自分に向けて発したことのある言葉でもあった。
「そう、そうね」
わたしは急に不安になってしまった。
もし、おかあさんが過去に何か大それたことに関わっていて、それに責任を感じてしまったら。
今の生活を続けられないと言い出したら。
わたしはどうしたらいいのだろう?
おかあさんが言うとおり、わたしはまだ一人で生きていく力はないし。
でも、それはおかあさんが決めること。
わたしには、どうすることもできない。
「どうしたの?レイ」
黙り込んでしまったわたしに、おかあさんが目を向けていた。
「何をそんな深刻な顔をしているの?」
「わたし、やっぱりおかあさんの重荷になってるの?」
「そんなことないわ。むしろ逆よ」
おかあさんは笑顔になって言った。
「レイがいるから、あたしはこうして毎日生きていられるのよ。あたし一人だったら、たぶんとっくに身を持ち崩してたわ」
「そんなこと…」
「いい?レイはあたしの大切な家族よ。そうでしょう?レイはあたしを母親と呼んでくれるわ。レイがあたしをおかあさんと呼んでくれたとき、あたしは決心したの」
おかあさんは深い色の瞳をしていた。
「あたしはレイといっしょに生きようって。だから、レイはなんにも心配しなくていいのよ」
「おかあさん」
「もう寝なさい。明日も学校があるのよ」
「わたし、明日も学校へ行くの?」
「当たり前でしょ。あたしだって仕事に行くわよ」
「でも…」
「監視がどうの、ってこと?大丈夫よ。多分手出しはしないわ」
「どうして?」
「無理矢理連れていくつもりだったら、とっくにそうしてたはずだしね。だから、あたしたちはいつも通りにすればいいのよ」
「そう…」
おかあさんの言葉は自信にあふれていた。
そのせいか、少し安心した気持ちになった。
きっとだいじょうぶ。
おかあさんの横顔を見ていたら、そんな気持ちになってきた。
それに、何かあったらわたしがおかあさんを守ればいいんだし。
なんでそんな風に思ったのか、自分でも不思議だったけど、その考えはわたしに新しい力を与えてくれたようだった。
続きます