次の日の朝、わたしはいつもと同じように起きて学校へ行く支度をした。
「ねえ、おかあさん。やっぱり学校へ行かないとだめ?」
朝食をテーブルに並べていたおかあさんは怪訝そうな顔をした。
「行きたくないの?だめよ、ちゃんと行かないと」
「どうして?」
「それはね、あたしたちがこの生活に誇りを持っているということをわからせるためよ」
「あの人たちに?」
「そうね」
お母さんは表情を変えずにそう言ったけど、内心は腹を立てていることに気がついた。
あの人、青葉さんの代表する組織、ネルフだっけ?のやり方が、おかあさんの気に障っていることは確かだと思う。
おかあさんは、誇り高い人だから。
「わかったわ」
席に着いたわたしに、おかあさんは笑みを浮かべた。
「レイにはつらい思いをさせるかもしれないけれど、許して欲しいの」
「わたしは、平気」
「あたしの勝手だとは思うの。でも…」
「わたしはお母さんは自由でいていいと思うわ」
「レイ?」
おかあさんはびっくりしたような顔をしていた。
それから、困ったような顔のまま笑顔になったけど。
「ありがとう、レイ」
いつものように学校へ行く。
玄関に入り、靴箱へ。
「おはよう、赤木」
「?」
思わず声のしたほうを振り仰いでしまった。
考えてみれば、朝からそんな風に挨拶されるのって初めてかもしれない。
「おはよう、レイ」
クラスメートの女子が三人ほどわたしに声をかけてきたようだ。
「おはよう」
とまどいながらも返事をしたら、彼女たちはわたしのそばへ寄ってきた。
「ねえ、今度からレイって呼んでいい?」
「今日、いっしょにお昼食べない?」
「え?」
急にどうしたというの?
今まで、わたしはずっと一人きりだったし、そういうものだと思っていたのに。
「ねえねえ、昨日も転校生の家に行ったんでしょ?入ったの?」
「え、ええ」
「えー?やるう」
「で、どんな家だった?家の人とかに会ったの?」
「普通のマンションだと思うわ」
そう。少なくとも、変わったところはなかったと思う。
「ねえねえ、転校生の家ってお金持ち?」
「わからないわ」
「そりゃそうよ。レイってそういうことに興味なさそうだもん」
彼女たちはいっせいに笑い声をたてた。
何がおかしいのか、わたしにはよくわからなかったけれど。
「?」
靴箱の蓋を開けたわたしは首をひねってしまった。
「手紙?」
わたしの上履きの上に封筒らしいものが置いてある。
「えー?ラブレター?」
「モテるう!レイって」
彼女たちは大騒ぎを始めた。
なんでそんなに騒ぐ必要があるのかしら。
たかが手紙が置いてあっただけなのに。
手紙?
誰から?
手にとってひっくり返してみる。
「あー、やっぱり差出人が気になるのお?」
「そりゃあそうよねえ!」
彼女たちが騒ぐのを余所に、差出人書きを探す。
ない。
ただ、そっけなく「赤木レイさま」とあるだけ。
わたしは黙って封筒をカバンに仕舞った。
「後でゆっくり見るのね?」
「ねえねえ、後で見せてくれる?」
わたしは彼女たちを振り返った。彼女たちがぴたっと静かになる。
「教室、行きましょう」
彼女たちはあっけに取られたように頷いていた。
教室へ入って、わたしは手紙の存在を忘れてしまった。
碇君の姿が目に入ったせいだったのだけど。
わたしは碇君の姿を見たとたん、心臓がどきっとしてしまった。
なぜか今日も碇君は学校へ来ないと決めつけていたから。
考えてみれば、碇君が学校へ来るのは当然のことだったのだけれど。
ゆうべのことがあったので、てっきり碇君はいないと思いこんでいたのかもしれない。
「おはよう。昨日は、ありがとう」
わたしの姿を認めた碇君がやってきてそう言った。
「い、いいの」
でも、わたしは碇君をまっすぐに見ることができないでいた。
「…?」
碇君は怪訝そうな顔をしたけれど、それ以上何も言わないで自分の席に戻っていった。
そんな碇君の後ろ姿に目をやって、わたしはため息をついてしまった。
せっかく碇君が話しかけてくれたのに。
わたし、何をやっているの?
お昼休み、お弁当を食べてからぼうっとしていたら声をかけられた。
「ねえねえ、さっきのラブレター読んだ?」
目を戻すと今朝の女の子たちが並んでいる。
みんな興味津々という顔をしている。
「いいえ。まだ」
「なんだあ。まだなの?」
「ねえねえ。読んでみなよ」
「レイってモテそうじゃん?よくそういう手紙もらうの?」
「初めてよ」
「うそお?」
彼女たちは大げさに驚いたふりをすると、周りの椅子に腰掛けた。
「でも、レイっておとなしめだったしねー」
「ウチの男子どもも見る目がないねー。まあ、あたしの魅力に気づかないんだからしょうがないけどさー」
「それって、見る目があるって言うのよ」
そんなことを言いながら彼女たちは笑い転げている。
「どうして?」
「なになに?」
「どうしてわたしに興味を持つの?」
「んー。なんて言うかねー」
「いいじゃない。友達になりたいと思ったのよ」
そうそう。と言いながら彼女たちは頷いた。
友達に?
どうして今頃になって?
「でも、わたしとつきあってもおもしろくないと思うわ」
「そんなことないわよ」
一人が思いの外真剣な表情で言った。
丸顔のぽっちゃりした、いつもにこにこしている感じの子だったけど。
「レイってすごくしっかりしてると思う」
「わたしが?」
「ほんとはね。ずっと気になってはいたのよ」
「でも、なんて言うか、近寄りにくかったの」
「目を付けてる連中もいたしね」
そこだけひそひそ声で言った子は、あたりをうかがうふりをした。
「でも、ほら、レイ、転校生にお熱になったじゃない?」
「え?」
彼女たちは笑い転げた。
「やだあ、自分で気づいてなかったの?」
「可愛かったわよー」
「そうそう。真っ赤になっちゃってね」
「わたしをからかいにきたの?」
「違うわよ」
一人が手をひらひらさせながら言った。
「なんていうか、親近感を感じちゃったの。それに、ミキはレイに借りもあるしね」
「借り?」
「3−Cの不良たちよ」
「?」
「あの三人、やっつけたのレイだって聞いたわよ」
「あれは、碇君が…」
「そう?レイが三人を投げ飛ばすところ見ていた子がいるのよ」
誰かに見られていた?
その可能性だってあったはずなのに。どうして思いつかなかったの?
「あ、あれは…」
「レイって、武道か何かやってるでしょ?そういう雰囲気あるもん」
「わたし、なんにもやってないわ」
「いいのよ、隠さなくったって。内緒にしておいてあげるから」
なんだか勝手に納得されているような気がするわ。
「あの三人にミキはいじめられたことあるのよ。でも、相手が相手でしょう?」
「だから、レイが退治したって聞いて、胸がすっとしたわ」
彼女たちはうんうんと頷いている。
そんなことがあったの?
ふと気がつくと、三人の向こうに碇君の姿があった。
「あら?」
三人のうちの一人が碇君に気づいたのか、意味ありげな笑いを浮かべた。
「じゃあ、またね」
「え?どおしてよお?」
「ほらほら」
「あ…」
「じゃ、またねー」
三人がくすくす笑いを向けながら去る間、碇君は顔を赤くして待っていた。
「な、なに?」
「あ、いや…。その…」
なぜかわたしも碇君も黙り込んでしまう。
「ちょっと、いいかな?」
「ええ」
わたしは碇君促されて教室を出た。
「なに?」
わたしは碇君と校舎の屋上にいた。
「あ、あのさ…」
碇君は迷っているようだった。
わたしはそんな碇君を黙って見つめた。
「こんなこと言うと、怒られるかもしれないけど…」
「…」
「レイ、僕に隠し事してない?」
「え?」
碇君の言葉に心臓がどきっとなってしまった。
「い、いや。勘違いだと思うんだけど」
「どうしてそんなこと言うの?」
「青葉さんが、レイに近づくなって言うから…」
「青葉さん?」
ゆうべやって来たネルフの人?
「レイは、危険だから、近づくなって…。ほんとに?ほんとにそうなの?」
碇君は必死とも見える表情をしていた。
「わたしにも、わからない…」
碇君ははっとしたように顔を上げた。
「わたしには記憶がないから。でも、変だと思うことはあるわ」
「でも、それは…」
「わたし自身、変だとおもうことはあるわ。でも、それがどういうことなのか、わたしにもわからない」
「そ、そうだよね。レイも、記憶がないんだし」
「でも、わたしは危険なのかもしれない」
「ど、どうしてそんなこと言うのさ?」
「なんとなく、そう思うだけ…」
わたしは碇君から目を逸らした。
どんよりした雲の下に、黒っぽい山が横たわっている。
なんだか不安をかき立てるような光景に思えてしまった。
家に帰ってみると、おかあさんがもう戻っていた。
「ただいま」
「お帰り。すぐにご飯にしましょう」
「早かったのね?」
「そうね」
時計を見ると五時過ぎだった。
おかあさんは努めて何気ない風を装ってるみたいだったけど、やっぱり早く帰ってきたのね。
内心は不安が渦巻いてるはずなのに、それをうかがわせないのはさすがだと思うけど。
ちょっと不満。
たまには本音をさらけ出して欲しいのに。
「レイ。手を洗ってらっしゃい」
おかあさんはわたしの様子に気づいた風もなく、そう言った。
「はい」
洗面所で手を洗う。一緒に顔も洗ってみたりする。
目を上げると、どこか緊張したような表情のわたしの顔が鏡に映っていた。
「レイ、手伝ってちょうだい」
「はぁい」
とにかく、食事のお手伝いをしなくちゃ。
おかあさんはいつも通りの生活を変える気はないみたいだし。
青葉さんがやってきたのは、八時ちょうどだった。
わたしたちは食事の片づけも終わって、お茶をいただいていたところだった。
「赤木博士。おいでですか?」
ノックの音にドアを開けたわたしを、青葉さんは表情を変えずにちらっと目を向けただけだった。
「失礼いたします。準備はよろしいですか?」
「いつでも良いですわ。でも、出かける前にお茶を一杯くらいどうかしら?」
「いえ、時間がありませんので…」
「ずいぶん急ぎなのね。そのくらいの余裕はないと良い仕事はできなくてよ」
「は、はあ…」
青葉さんは困惑したような顔をしている。
「本当ならコーヒーでも差し上げたいところだけど、お茶で我慢してくださいね」
おかあさんは、コーヒーを出す気はないのね。
おかあさんはおいしいコーヒーを入れるのが自慢だけど、滅多に人にごちそうしたりしない。
わたしにだけ、たまに入れてくれるだけ。
きっと、気を許した人にしかコーヒーをごちそうしないことにしてるのだと思う。
「外におられる方にも入っていただけるかしら?」
「は、はっ…」
青葉さんが玄関から外に声をかけると、もう二人の男の人が現れた。
どちらも目立たない服装をしている。
この人たちがわたしたちを見張っていたの?
「レイ。お茶をお出しして」
おかあさんがお盆に載せたお茶を渡してくれたので差し出す。
「どうぞ…」
でも、三人とも躊躇してるみたいだった。
「だいじょうぶ。別に薬なんか入っておりませんわよ」
おかあさんは皮肉っぽく笑いながら言った。
「は、いえ、別にそのような…」
青葉さんが意を決したようにお茶を口に含んだので、外の二人も顔を見合わせてからお茶を口に運んだ。
しばらく奇妙な沈黙が漂う。
「それじゃ、支度してきますから、少し待ってくださいな」
そう言っておかあさんが立ち上がる。
「レイ。お留守番をお願いね。戸締まりをちゃんとしておいてね」
「お言葉ですが、赤木博士…」
おかあさんが少し険しい目になる。
「こちらのお嬢さんも一緒に来ていただくように、とのことです」
「どういうこと?そんなことは聞いておりませんわよ」
「博士だけ、と申したことはないはずです」
おかあさんは険しい目を青葉さんに向けていた。
「おかあさん?」
「レイ。あなたは心配しないで」
「我々はこちらのお嬢さんも一緒にご案内するよう言いつかっておりますので」
「この子はまだ子供です。どんな用があると言うの?」
「それは、おいでいただければ所長のほうから説明があると思います」
「拒否いたします」
「それは、残念ながらできかねます。我々としても選択の余地はありませんので」
二人の男の人が同時に懐に手を入れる。
おかあさんはしばらく青葉さんとにらみ合っていた。
「おかあさん、わたしなら平気」
「レイ…」
おかあさんは迷っているみたいだった。おかあさんには珍しいことだとも言える。
「いいの?もしかすると、戻ってこれないかもしれないのよ」
「だったら、なおのことおかあさんと一緒に行くわ」
おかあさんはわたしに辛そうな目を向けた。
「それで、いいの?」
「ええ」
おかあさんは深い目の色をしていた。
「わかりました。この子も一緒に行きます。ただし…」
おかあさんはこれ以上はないという厳しい目を青葉さんに向けていた。
「この子に一切手を出さないでちょうだい。それが守れないなら、わたくしは一切の協力を拒否します」
「おかあさん…」
青葉さんはわたしにちらっと目を向けただけだった。
「博士のご意向は伝えます。それでよろしいですか?」
「けっこうよ」
「では、参りましょう」
アパートのドアを出ながら、ふと振り返ってしまった。
ささやかな家だけど、おかあさんとわたしの思い出の詰まった家。
この家にいつ戻れるのか、皆目見当がつかないのが不安だった。
いえ。戻れるかどうかも、わからないのかもしれない。
わたしたちはアパートの外に留められていた大きな車に乗り込んだ。
続きます