女の人、伊吹さんは、おかあさんを目をまん丸にして見つめていた。
「生きて…、生きてらしたんですね?!先輩!」
いきなり叫び出したので、少しびっくりしてしまった。
「あ、あの…」
おかあさんはどちらかというと戸惑っているみたいだったけれど。
「伊吹くん。落ち着きたまえ」
「先輩、戻ってきてくださったんですね?!先輩!」
伊吹さんは、冬月さんの言うことも耳に入っていないみたいだった。
「申し訳ないけれど、わたくしは記憶がないんです」
「…え?」
伊吹さんは信じられないという様子だった。
伊吹さんは涙のにじんだ目でおかあさんを見つめているようだったけれど。
「あなたが誰なのか、私は思い出せないの。悪いのだけれど…」
「そんな?!」
必死な様子というのはこういうものなのか、と思わせるような雰囲気だった。
「私、先輩の部下だった伊吹マヤです!どうしてそんな?!…ほんとに忘れちゃったんですか?私のこと…」
おかあさんはすまなそうに首を振っただけだった。
「…そんな。…どうして?」
伊吹さんは泣き出してしまいそうだった。
「伊吹くん、落ち着きたまえ。赤木博士が記憶を失っているのは確かだ。しかし、取り戻せないわけではない」
伊吹さんは思いつめたような顔をして、冬月さんを見つめた。
「そうですよね?絶対治りますよね?!」
なんだか冬月さんは気圧されているみたい。
「う、うむ。それはゆっくり取りかかるとして、今はまず休んでもらわなくてはならん。レイが疲れているようなのでな」
「え?」
その時になって、初めて伊吹さんはわたしに注意を向けてきた。
「レイ?…あのレイ、なんですか?」
伊吹さんは探るような目つきでわたしの全身を見わたした。なんだか、ちょっと気分が良くない。
「ああ。その通りだ」
「そう言えば…、髪の毛の色が違うから…」
「レイも記憶をなくしているのだ」
「え?では、あのことも?」
「ああ。おそらく何も憶えていまい」
なんなの?いったい何の話をしているの?
「とにかく休んでもらうのが先だ。話はそれからでもゆっくりできる」
「は、はい。わかりました」
伊吹さんは冬月さんに敬礼をすると、おかあさんに話しかけた。
「先輩、こちらへどうぞ。案内しますから」
「悪いわね。伊吹さん?」
伊吹さんは顔をこわばらせた。
「マヤって呼んでください。昔みたいに…」
おかあさんは困ったような視線を伊吹さんに向けていた。
「そう。私はあなたのことをそう呼んでいたの…」
「先輩にはずっと可愛がっていただきました。先輩はあたしの尊敬する上司だったんです」
「そう…」
おかあさんは、なぜか少しつらそうな顔をしていた。
案内された部屋は、ツインのホテルルームみたいな部屋だった。
シングルベッドが二つに、小さなテーブルと椅子が二脚ある。
「何か飲み物を用意しましょうか?」
部屋のドアを開けてくれた伊吹さんは、おかあさんにそう問いかけた。
「そうね。コーヒーがあるかしら?アメリカンで」
「ブラックで良いんですか?」
「ミルクも入れていただけるかしら?」
「はい」
伊吹さんは意外という感じを受けたようだった。
「じゃあ、すぐ持ってきます」
「レイ。こちらへ来て」
伊吹さんが出ていくと、おかあさんが手招きした。お母さんの前に立つ。
「目は見える?もう一度コンタクトを入れる?」
「平気。もう遅いからいいわ」
「そうね。じゃあ、これを持っていて」
おかあさんは、わたしにコンタクトのケースを差し出した。
「はい」
「さあ。少し休みましょう。ずっと車に乗っていて疲れたでしょう?」
「おかあさんこそ疲れていないの?」
「あたしはだいじょうぶよ」
でも椅子に座り込んだおかあさんは、やっぱり疲れているみたいだった。
「おかあさん、疲れてるんでしょう?」
「だいじょうぶよ。レイ、シャワーを浴びたら?バスルームがあるでしょう?」
「え?」
確かに、入り口の脇にドアがある。たぶんバスルームとトイレがあるのだろう。
「わたし、いい」
「そう…」
おかあさんはそう言ったきり、椅子に座り込んだまま黙り込んでしまった。
「おかあさん?」
「なに?」
「なに考えてるの?さっき見たこと?」
「ええ。そうよ」
「あの人、おかあさんも関わっていたって…」
「そうね」
「気にしてるの?」
「気にならなくはないわ。でも、今の私には実感がないの。自分が赤木リツコである、って聞いたとき以上に」
「今のおかあさんに責任があるとは思えない」
「それはまだわからないわ。あたしが何にどんな形で関わっていたのか、まだ何もわからないんだし」
おかあさんは何かを待っているようだった。
いったい何を待っているのか、わたしには想像もできなかったけれど。
「お待たせしました」
ドアが開いて伊吹さんが入ってきた。
ポットとカップが並んだカートを押している。
「悪いわね。気を使わせて」
「いいんです。気にしないでください」
伊吹さんはカップを三つ並べるとポットからコーヒーを注いだ。
わたしには椅子がなかったので、ベッドに腰掛けることにした。
「どうぞ。あ、熱いかもしれませんよ」
「ありがとう」
おかあさんはカップにミルクを少しだけ入れた。それから、わたしのカップにはミルクをたっぷり入れる。
「おかあさん、そんなに入れなくても…」
「レイはこのくらいでないとだめよ」
「もう。そうやってすぐ子供扱いする」
「あ、あの…」
伊吹さんがびっくりしたような声を出した。
「どういうことですか?先輩。おかあさんって?」
「え?なあに?」
伊吹さんは、信じられない、という顔をしていた。
「いま、おかあさんって呼びませんでした?」
「ええ。そうよ。この子は私の子供よ」
伊吹さんは、とうてい受け入れがたいという顔でわたしとおかあさんを交互に見やった。
「そんな?信じられません。いったいどうして?」
「それほど驚くことじゃあないでしょう?レイは血はつながっていないけれど、私の子供になったのよ」
「それって、養子縁組したってことですか?」
「そうなるわね」
何を当たり前のことを、という顔をおかあさんはしていた。
「どうしてそんな?…いえ、理由はいいんですけど」
伊吹さんは完全に混乱したような顔をしていた。
「理由が聞きたいみたいね?」
伊吹さんは、おずおずという感じでうなずいた。
「私もレイも記憶がない者同士だったし。それよりなにより…」
おかあさんはちょっと考えるそぶりをした。
「心が引き合ったせいかしら」
「心が、ですか?」
「そうよ。相手に好意を持つのに理由なんかないでしょう?」
「そういうものなんですか?」
「人の出会いなんて、そんなものじゃない?理由なんて後からいくらでもつけられるけど」
「はあ…」
伊吹さんはいまだ納得しがたいという顔をしていたけれど、それ以上は追求しなかった。
「先輩、今までどこで何をしてらしたんですか?あたし、あの時てっきり先輩は…」
「あたしが持っている記憶はサードインパクトからこちらのものしかないのよ。気がつくと、第二新東京にいた。それだけ」
「それより以前の記憶って、まったくないんですか?」
「もっとずっと以前のならあるわよ。子供時代から、そう、セカンドインパクトまでならなんとなく」
「そんな?一番大事なところが無いじゃないですか?」
「大事かどうかはわからないけれど、重要な部分が抜け落ちてることは確かね」
「じゃあ、仕事とかどうやってたんです?まさか無職ってことはなかったんでしょう?」
「一応、資格は有効だったわ。だから医師として働いていたの」
「医師…、お医者さんですか」
伊吹さんはなぜか納得した様子だった。
「でも、よくそんな難しい仕事できましたね?あ、すいません」
「技能的なことは思い出せるのよ。もっとも、私の専門は臨床医学じゃなかったようだけれど」
「それはそうです!先輩は最高の生物学者にして最高の物理学者だったんですから」
「そんなに興奮しないで。そうかもしれないけれど、今はその技術より医学のほうが人の役に立つわ」
「そんなもったいない…!」
おかあさんは伊吹さんをまじまじと見つめた。
「あの青葉さんもそうだったけれど…。あなたたちは私に何を期待しているの?」
「それは、もちろん技術部門の責任者としてカムバックしていただくことです」
おかあさんは少し笑みを浮かべた。それは多少皮肉っぽくもあったけれど。
「こんな年寄りを引っ張り出そうとするより、あなたたち若い人が頑張るべきじゃなくて?どんな仕事かわからないから、あまりいい加減なことはいえないけれど」
「そ、それはそうですけれど。あたしたちを指導してくださる先輩は必要なんです」
「いつまでも他人に甘えていてはだめよ。あなたの仕事は、あなたにしかできないの。あなたはこの仕事をずっと続けていたのでしょう?」
「そ、それはそうですけれど…」
「だったら、知識も技術も、何年も離れてしまった私よりずっと高まっているはずよ。もっと自信を持ったらどうかしら?」
「そんな…」
伊吹さんはおかあさんの言葉に迷っているみたいだった。
「それに、いったいここで何をしているのか、まだ全然説明してもらっていないし」
それはわたしもずっと疑問に思っていたことだった。
なんだか大変な施設だし、人だってたくさんいる。
でも、いったい何のための施設や人なのか、さっぱり見当もつかない。
「そ、それは…。所長のほうから説明があると思います…」
伊吹さんは急に歯切れが悪くなった。
「今から説明をしていただくわけにはいかないかしら?」
「今からですか?でも、もう休まれるんじゃ?」
「どう?レイ。もう一度話を聞きに行く?それとも、もう寝たほうがいい?」
「聞きにいくわ。このままじゃ、たぶん寝られないと思うから」
いろいろな説明を聞いたけれど、なんとなくどれも断片的という感じがする。
全体像がちっとも見えてこないので、わたしもいらついた気分になってしまいそう。
「そう。じゃあ、さっきの、冬月さんにお願いしていただけるかしら?」
「そ、それは…」
「いいわね?」
「わ、わかりました。少し、お待ちください」
そう言って、伊吹さんはポケットから携帯電話みたいなものを取り出して話し始めた。
「伊吹です。せんぱ…赤木博士が所長にもう一度お話しがしたいそうです。都合のほうはどうでしょうか?」
伊吹さんは携帯電話に耳をすませていた。
「はい…はい…。わかりました。では」
伊吹さんは電話を切るとこう言った。
「お会いできるそうです。案内しますので…」
「ありがとう。伊吹さん」
立ち上がったおかあさんを、伊吹さんはどこか残念そうに見つめていた。
わたしたちが案内されたのは、エレベーターホールだった。
先ほどの会議室にもう一度行くのだとばかり思っていたのだけれど。
伊吹さんは、昇りではなく降りのボタンをプッシュした。
おかあさんは黙ったままエレベーターのインジケーターを見つめている。
わたしも気軽にしゃべる気分にはなれなかった。
なんだか、とんでもないところへ案内されるような気がする。
数分間、エレベーターが止まるまでずっと沈黙が支配していた。
チン!
ドアが開くと、外は広い空間だった。ずっと奥の方は薄暗くなっていて様子がよくわからない。
ずいぶん降りたはずだから、相当深い地下だと思うけれど、こんな大きな地下室があるなんて。
「こちらです。所長がお待ちです」
伊吹さんは先に立って歩き出した。
「ずいぶん大きな地下施設ね?いったいなんのため?」
「それは…」
伊吹さんは答えるべきか否か迷っているようだった。
「別に答えたくないならいいわ。でも、これだけの施設を作るのに、相当資金がかかっているわね」
おかあさんは歩きながらもあちこちに鋭い目を向けているみたいだった。
わたしにはわけのわからない機械や道具が並んでいるだけに見えるけれど。
「こちらです」
伊吹さんは一つのドアを開けた。
中はわりと狭い部屋だった。とは言っても、学校の教室の半分くらいあるだろうか。
「やあ。ご足労をかけるね」
部屋の真ん中に冬月さんが立っていた。
「とんでもありません。こちらこそわがままを申して申し訳ありません」
「いや、なに。善は急げと言うからな」
冬月さんは奇妙な笑みを浮かべていた。何か良いことでもあるというの?
「率直に言うが、私としては赤木博士にもう一働きしてもらいたいのだ」
「どのようなことででしょう?」
「これを、完成させて欲しい」
冬月さんは背後を振り返った。
部屋の突き当たりは一面窓ガラスになっている。
その向こうは暗くなっていて、どうなっているのか見て取ることはできない。
冬月さんの合図で照明がつけられたらしい。ガラス窓の向こうがぱっと明るくなる。
窓の向こうは、とんでもなく広い空間だった。今まで通ってきた空間が小部屋に思えるほどの。
そして、その空間の向かい側の壁に奇妙なモノが佇んでいた。
なんとなく人の格好をした何か。でも、ものすごく大きい。
青い色の鎧みたいなものを部分的まとっていて、でも、腕なんかはなんとなく生き物のような気がする。
「あれは?!」
おかあさんの声がややうわずっているようにも思える。
「人造人間、エヴァンゲリオン。その素体だ」
「エヴァンゲリオン、ですか?」
さすがのおかあさんも呆然としているようだった。
「こ、これほど巨大だったなんて?これはあの映像にあったものなのですか?」
「厳密に言うと同一体ではない。あの時のエヴァは、あの戦いですべて失われてしまったからな」
「では、もう一度作り直していると?いったいなぜ?」
おかあさんはやや血相を変えているようにも思える。
「敵がもう一度攻めてくる可能性が高いのでな」
「敵、ですか?撃退したのではなかったのですか?」
「再度侵攻を企てているとみてよい」
「いったいなぜ?」
「彼らの企図するところは人類の絶滅と再生らしいのでな」
「人類の再生?それとこれとどういう関係があるのです?」
「彼らがもう一度彼らのエヴァを製造しているという確かな情報がある。あの白いエヴァだよ」
その言葉に、わたしは先ほど見た映像を思い出してぞくっとなってしまった。
禍々しい死の使いとしか思えない姿をした敵のエヴァシリーズ。
「では、このエヴァをわたくしに完成させろと?そしてその敵と戦うようにと?」
おかあさんは佇むエヴァを見つめながら問いかけた。
「その通りだ」
「…」
おかあさんは黙り込んでしまった。
「自信がないのかね?記憶をなくしているためかね?」
「それもありますが…」
おかあさんは何かためらっているようだった。
「確か、エヴァは有人操縦だと聞きましたが?」
「その通りだ」
「操縦には特殊な資質が必要だと聞きましたが?」
「その通りだ」
「パイロットがいるのですか?」
「今まではいなかった」
「どういうことです?」
おかあさんの声がきつくなる。
「今は一人候補者がいる」
「いったい誰です?まさか?」
おかあさんは、くるりとわたしを振り返った。
いったいどうして、わたしを見るの?
「その通りだ。ここにいるレイがパイロット候補者だよ」
続きます