「ちょっと待ってください!」
おかあさんは、びっくりするほどの大声を出した。
「わたくしはそのようなことは聞いておりません!」
「だから今話したのだ。先に話せば、とうていここへ来てもらえるとは思えなかったのでね」
冬月さんはおかあさんの剣幕にも動じた様子は見せなかった。
「当然です」
おかあさんの表情は氷のように冷ややかになっていた。
こんな恐いおかあさんの顔って、見たことないような気がする。
「では、改めて要請しよう。レイにパイロットとして復帰して欲しい」
冬月さんはわたしを見つめながら言った。
わたしは全身がかっと熱くなったような気がした。
どうしてかはわからない。
ただ、とんでもない激情が身体の中を走り抜けていった。そんな気がしただけ。
「お断りします」
おかあさんはこれ以上はないという冷たい声で言った。
「わたくしもこのたびのお話しはなかったことにさせて頂きます」
「まあ、待ちたまえ」
冬月さんは片手でおかあさんを制しながら言った。
「赤木博士が立腹するのも無理ないと思うが、我々も時間がないのだ。この際、手段を選んではおられんのだよ」
「…」
おかあさんは話をする気もないらしい。
「なんとしてもあのエヴァを動かせるようにせねばならん。そうしないと、今度こそ本物のサードインパクトが起こってしまうのだ」
「…」
「サードインパクトの実態を知っているかね?」
「…」
おかあさんは表情を変えずに冬月さんを見つめていた。
「地球上の全ての生物を原初の混沌に戻そうという企てだよ」
「ばかなことを…」
「そう。そのばかなことを彼らは本気で行おうとしている。彼らはこの星の破壊と再生を自分たちの手で行うつもりなのだ」
「それが人類の新しい進化ですか?」
「それが正しいと信じているのだからな。傲慢だよ」
「神の摂理に反します…」
おかあさんの声は、なぜか弱々しかった。
「彼らは自分たちが神の代行者だと信じておる」
「…」
おかあさんは背後に目をやった。
エヴァが闇の中に佇んでいるのを見つめているらしい。
エヴァはぴくりとも動かない。
「レイ…」
「はい?」
おかあさんはつらそうな顔をしていた。
わたしはお腹の中がきゅっとすぼまるような感覚を味わっていた。
おかあさんは、わたしにエヴァに乗れと言うかもしれない。
もし、そう言われたら…。
わたしは断るだろうか?
いいえ。
きっと承諾すると思う。
おかあさんが望むなら、わたしはエヴァのパイロットになることも厭わないと思う。
もっとも、わたしにあのエヴァが動かせるとは思えないけれど。
「あなたは帰りなさい」
「え?」
おかあさんの言葉は、わたしの予想を裏切るものだった。
「いま、なんて言ったの?」
「あなたは帰りなさいと言ったの」
「お、おかあさんはどうするの?」
「あたしは残るわ。あのエヴァを…」
おかあさんはもう一度背後に目をやった。
「もう一度作ることが罪滅ぼしになるなら。…いえ。なるはずないけれど、これも運命だと思うから」
「おかあさん?」
「あたしはもう手を汚しすぎているのよ。だから…」
「そんな、そんなことないわ!明日を信じて生きようって言ったのはおかあさんじゃない?!」
「レイ…」
「わたしと一緒に生きるって言ってくれたのは、おかあさんじゃない!そんなこと言わないで!おかあさんはもうじゅうぶん苦しんだわ。これ以上苦しむ必要なんてない!」
「レイ」
おかあさんは驚いたような顔をしていた。
「昔、どんなことがあったって、それは済んだことでしょ?もう一回持ち出して、そのことで責められる必要なんてない」
「レイ」
わたしは必死になっていた。
なぜだかはわからない。
でも、心の奥底で告げるものがあった。
おかあさんをエヴァに近づけてはいけない。近づいたら、おかあさんは必ず……死ぬ。
「昔どんな間違いを犯したからって、そのことでいつまでも責められる必要なんてない。おかあさんは、おかあさんはもうじゅうぶん償いをしてるわ…」
おかあさんの顔がなぜがぼやけて見えてしまった。
もしかして、わたし泣いてる?
涙ににじんだおかあさんは、困ったような、それでいて嬉しそうな顔をしていた。
「レイ、興奮しないで。あなたが怒ることはないのよ」
そう言いながら、おかあさんはわたしを抱き寄せてくれた。
「冬月さん」
「何かね?」
「お返事はすぐにしなくてはいけませんか?」
「ふむ。そうだな…」
冬月さんは顎を撫でてるようだった。
「すぐにとはいくまいな。明日の昼まででどうかね?」
「けっこうですわ。レイ、部屋に帰りましょう?」
「おかあさん、断るわよね?」
「あなたをエヴァに乗せることだけはしないわ」
「おかあさんよ。おかあさんはどうするつもりなの?」
「少し、考えさせて…」
おかあさんはひどくつらそうな顔をしていた。
その顔を見たら、わたしは何も言えなくなってしまった。
部屋に戻ったわたしは、ベッドの上に制服のまま横たわっていた。
おかあさんは椅子に座ったまま、考え事をしている。
わたしはそんなおかあさんをぼんやりと見つめていた。
どうやっておかあさんを引き留めようか、それまで必死で考えていた。
でも、どうやっておかあさんを説得したらいいのか、さっぱりわからなかった。
おかあさんはこうと決めたら、絶対に引かない人だから。
だからこそ、おかあさんにエヴァに関わって欲しくない。
エヴァに関わったら、おかあさんは間違いなく破滅する。
それは奇妙な確信だった。
おかあさんは強い人だけど、強すぎるとわたしは思っている。
だから、ぎりぎりまで自分を追いつめてしまうし、破滅に向かう道でもまっすぐ歩いてしまうと思う。
おかあさんって、そんな危うさがいつもまとわりついていると感じる。
だからこそ、わたしがブレーキにならなくてはいけないのに。
どうやったらいいか、わからない。
こんなにも自分の無力感にとらわれたことって、なかったような気がする。
「レイ、もう寝なさい」
「おかあさんが寝たら…」
「あたしは、もう少し考えるから…」
「考えることなんてないわ。断ればいいのに」
「レイらしくなくはっきり言うわね」
「おかあさんはエヴァに関わっちゃだめ。絶対だめ」
「どうして?そこまで言うんだから、何か理由があるの?」
「そう思うだけ…」
「だいじょうぶよ、レイ。あなたをエヴァに乗せたりしないわ」
「わたしのことじゃないの」
「そう?レイはエヴァに乗っても良いと思ってるの?」
「わからない。エヴァに乗るってどんなことなのか、想像もできないし」
「レイの映像があったわ…」
わたしはおかあさんの言葉にはっと顔を上げた。
「それって、さっき見せてもらったビデオにあったの?」
「そうよ。何かのテストの時の映像だと思うわ。レイと、ほかに二人のパイロットがいたわ」
「二人?わたしのほかに?」
「そう。男の子と女の子よ。二人ともレイと同じくらいの年齢だったかしらね」
急に身体がぞくうっとなってしまった。
なんなの?この悪寒は。
「お、おかあさん…」
「なに?」
「その、男の子の名前、わかる?」
「ちょっと待って…」
おかあさんは額に指を当てている。
「画面に表示があったわ。碇…。そう、碇シンジだったかしら…」
わたしはひゅっと大きく息をのんでしまった。
「どうしたの?」
「い、今、碇シンジって言ったでしょ?」
「あ…!」
おかあさんも気づいたらしい。
「碇シンジって、レイの言っていた転校生のこと?」
「そ、そうよ。どんな子だった?顔、憶えてる?」
「あまりよくは…。どちらかというと華奢な感じの男の子だったと思うわ。パイロットらしくない男の子だったのは確かよ」
「碇くんよ…」
「レイ?」
わたしは顔を両手で覆ってしまった。
どうして?どうして碇くんが?
わからない。
でも…。
碇くんと出会ったとき、懐かしい感じがしたのはこのせいだったの?
わたしと碇くんが同じエヴァのパイロットだったせいなの?
わからない。
わからないけれど…、なんなのこの胸騒ぎは。
きっとわたしは碇君を知っていたのだと思う。
だから、あの坂道でぶつかった時、あんなにも懐かしい感じがしたのかもしれない。
「レイ?」
「え?」
「どうしたの?真っ青よ」
「わたしも碇君もエヴァのパイロットだった。だから…」
わたしの頭の中はいろいろな思いがぐるぐる回っていた。
どうして碇くんがわたしの学校に転入してきたの?
わたしはエヴァに乗ってどんなことをしたの?
わたしと碇君はどんな間柄だったの?
「レイ!」
はっと気がつくとおかあさんがわたしの手を握っていた。
「落ち着きなさい」
おかあさんは強い目でわたしを見つめていた。
「レイが心配することなんてないの。だいじょうぶよ」
「おかあさん、わたし…」
おかあさんはわたしの頭を抱き寄せた。
「だいじょうぶよ、レイ。あなたが心配することはないの。だいじょうぶよ」
おかあさんの身体のぬくもりが伝わってきたせいか、少し落ち着くことができた。
「おかあさん、おかあさんも帰りましょう?」
「そうね。そのほうがいいかしらね」
「絶対そのほうがいい。おかあさんはエヴァに関わっちゃだめ」
「さっきもそう言ったわね。レイがそこまで言うんだから、よっぽどね」
わたしはおかあさんをぎゅっと抱きしめた。
こんなことをしたのは初めてかもしれない。
おかあさんの身体は、思ったよりずっと痩せていた。
なんだか心配になるような痩せ方だった。
「帰りましょう?おかあさん」
「ええ…」
おかあさんはわたしの頭をゆっくりと撫でてくれた。
わたしは安心感がゆっくりと広がってくるのを感じていた。
次の日の朝、食事を済ませたわたしとおかあさんを伊吹さんが呼びに来た。
職員向けらしい食堂で食べた食事は、メニューはそろっていたけれど、なんとなく味気なかった。
「おはようございます」
「おはよう、伊吹さん」
おかあさんはその呼び方を変えるつもりはないらしい。
伊吹さんは少し残念そうな顔をしていたけれど、わたしはほっとしていた。
「さっそくで申し訳ありませんが、所長がお呼びです。よろしければ、所長室へおいでいただきたいのですが」
「わかりましたわ。すぐにうかがいます」
おかあさんはスーツを羽織ると、きびきびと立ち上がった。
「レイ。あなたは部屋で待っていなさい」
「申し上げにくいんですが、レイ…さんもおいでくださるようにとのことです」
「なぜかしら?返事ならわたくしだけでじゅうぶんなはずです」
「それは…所長から直接そう言われておりますので」
おかあさんは少しの間伊吹さんを睨んでいたけれど、わたしを振り返った。
「レイ。ということだそうだけど、どうする?いっしょに行ける?」
「行きます」
わたしは立ち上がると伊吹さんを見つめながら答えた。
伊吹さんに続いて廊下を歩いていくと、エレベーターホールに冬月さんが待っていた。
「おはよう。よく眠れたかね?」
「おかげさまで」
おかあさんは、にこりともしないで言った。
「ふむ。では、行こうか?」
冬月さんはエレベーターに乗るように促した。
地下へ下がるのかと思ったけれど、冬月さんは階上へ行くボタンを押した。
「どこへ行くのですか?」
「今日は天気も良いし、機嫌も良いらしいのでな」
「は?」
「着けばわかるよ」
冬月さんは何か悪だくみでもしているような表情をしていた。
「こちらだ」
エレベーターを出ると、冬月さんは廊下を先頭に立って歩き出した。
「こんなところで何のお話があるのです?昼まではまだ間がありますが」
「わかっておるよ。だから、今のうちにすませておこうと思ってな」
「…?」
おかあさんは眉をひそめたけれど、黙ってあとに続いていく。
廊下の片方は広いガラス窓になっていて、ここが地上であることがわかった。
緑に被われた山の斜面が間近に見える。
あの地下施設の地上の建物なのね。
ふと、行き交う人たちがみな白衣を着ていることに気がついた。
胸から聴診器をぶらさげた人や、ナース帽をかぶった女の人。
「病院、ですか?」
「その通りだよ。ここは我々の経営している病院でね。まあ、社会還元のようなものだ」
明るい朝日の射し込む廊下を歩いて、冬月さんはある病室の前で足を止めた。
「ここだ。ひとつ病人を見舞ってくれんかね?」
「病人?どなたです?」
「会えばわかると思うよ」
冬月さんはそう言うと、病室のドアを開けた。
「具合はどうかね?」
部屋の中からはうなり声が返ってきただけだった。
誰なの?
「では、儂は席を外すとしよう」
冬月さんはそう言うと、おかあさんを病室に入れて自分は出てきてしまった。
「レイも会ってくるとよい」
「はい…?」
おかあさんに続いて病室に入った。
意外と広い病室のベッドが一つだけ置いてある。
ベッドの上に横たわった人は、顔を窓に向けていて表情はわからない。
どうやら男の人らしいけれど。
ふと、パジャマを着た片腕がぺしゃんこに垂れ下がっているのに気がついた。
この人、片腕がないの?
「誰だ?こんな朝早くから」
男の人は不機嫌そうにそういいながら、頭の向きを変えてわたしたちに目を向けた。
黒い顎ヒゲを伸ばした男の人だった。
え?
わたしの身体をぞくっと悪寒が走り抜けていった。
「お、おかあさん?」
返事がないのを不審に思って目を向けると、おかあさんは真っ青な顔をして男の人を見つめていた。
続きます