「おかあさん?」
わたしの声は、なぜか情けないほど震えていた。
「おまえたちか…」
男の人はそれだけ言うと、黙り込んでしまった。
黙ってわたしとおかあさん交互に目を向けてくる。
男の人の目の周りはえぐれてしまっていて、ぎょろっとしているのが恐いような感じを受ける。
「私を殺しに来たのか?」
男の人の言葉に、わたしは目を見開いてしまった。
この人、いったい何を言ってるの?
「おっしゃることの意味がわかりませんが…」
おかあさんの顔は青ざめていたけれど、声は落ちついていた。
「では、なんだ? 私を笑いに来たのか?」
男の人の片頬に自嘲的な笑みが浮かんだ。少しも面白がっていない。そんな笑い方だった。
「なぜそのようなことを?わたくしはあなたにお会いした憶えはありませんが」
男の人は目を細めてうかがうような表情を浮かべた。
「私をからかっているのか?」
「わたくしはこの五年間の記憶をなくしています。その間にお会いしていたとしても、思い出せませんので」
「…」
男の人はおかあさんの表情をしばらく窺っていたけれど、わたしに目を移した。
「レイ…」
男の人に見つめられて、わたしの身体に戦慄が走った。
なぜかはわからない。
ただ、びりっと身体に電気が走ったような気がしただけだった。
「久しぶりだな」
なぜか男の人の声は穏やかに感じられた。
でも、その目は鋭くて、わたしは針に突き刺されるような気がした。
「生きていたか」
わたしは言葉がなかった。
わたしはこの男の人に会ったという記憶はない。
でも、わたしの心は自分でも不可思議なほど騒いでいた。
「おまえも記憶がないのか?」
男の人は奇妙に失望をにじませながら言った。
「はい…」
「二人ともとは、出来すぎのような気がするな」
男の人はそう言ってわたしとおかあさんを見比べた。
「わたくしはあなたにお会いしたことがあるのですね?」
おかあさんは確かめるように言った。
「ああ…」
男の人は奇妙な表情を浮かべていた。
失望しているようにも、喜んでいるようにも見える表情だった。
「会ったことはある。二人ともな…」
男の人は口をわずかに歪ませた。
「私はおまえたちに酷いしうちをした。許してくれとは言わん。許されることではないからな」
「…」
おかあさんはこわばった表情を浮かべたままだった。
「この命でよければおまえたちにやろう。もうそのくらいにしか役に立たん」
「おっしゃることの意味がわかりません。よしんばそうであっても、今のわたくしにあなたに遺恨はありません」
「…そうか」
男の人は顔をそむけると枕に頭をうずめた。
「では、もう用はないはずだ。帰りなさい」
男の人の最後の言葉はなぜか優しく聞こえた。
「ひとつお伺いしてよろしいですか?」
わたしはおかあさんに目を向けた。おかあさんは奇妙に緊張した顔をしていた。
「…なにか?」
「エヴァとは何です?」
わたしも知りたい。
男の人は天井を見つめたままだった。
「…悪い夢だ」
「は?」
「だが、人はまだその悪夢から醒められないでいる」
「あのエヴァは現実ではないのですか?」
「現実が悪夢そのものなのだ」
「意味がよくわかりません」
「エヴァは禁断の実そのものだ。だが、一度手にとってしまった者は手放すことができん」
「わたくしもエヴァに捕らわれていると?」
「おそらくな。ここへ来たことがその証しだろう」
わたしは急に不安になってきてしまった。
まさかおかあさんはここに残るつもりなんじゃ…。
「だが、忘れることはできる。記憶がないというのは神の恵みかもしれん」
「神、ですか?」
「忘れることだ」
それだけ言うと、男の人は窓のほうを向いてしまった。
「わかりました。長々とお聞きして申し訳ありませんでした。レイ、行きましょう?」
「はい」
でも、わたしは男の人から目が離せなかった。
「赤木博士」
立ち去りかけたおかあさんが振り返る。
「すまなかった」
「謝られても困ります」
「そうだな。レイ…」
わたしははっと顔を上げた。
「元気でな」
「は、はい。あの…」
わたしはそれ以上言葉が出なかった。
男の人は窓を向いたきり身動きひとつしなかった。
「レイ、行きましょう」
「はい」
「それでは、これで失礼します」
おかあさんの言葉にも、男の人は黙ったままだった。
わたしはおかあさんに促されて病室を出た。
廊下に出たところに冬月さんがいた。
「もう良いのかね?」
「はい。あの方は、どなたです?」
おかあさんの言葉に、冬月さんは少し眉を曇らせた。
「思い出せないのかね?」
「いえ」
おかあさんはわずかに苦しそうな顔をしていた。
「そうか」
冬月さんは軽く溜息をついた。
「まあ、そのほうがいいのかもしれんが…。彼は碇ゲンドウ。この施設の責任者だ」
「責任者?それは冬月さんではないのですか?」
「私は代行に過ぎんよ。実質は私が…」
「今、なんて言いました?!」
わたしは冬月さんの言葉を遮ってしまった。
冬月さんはそんなわたしを驚いたように見つめた。
「なんだね?」
「あ、あの人の名前です!碇と言いませんでしたか?」
「そうだ。碇ゲンドウ。かつて、NERVの総司令だった男だ」
「そ、そうじゃなくて。碇って、碇くんの…」
「ん?ああ。シンジくんのことかね?」
「は、はい」
「彼はシンジ君の父親だ。もっとも、父親らしいことは何一つしとらんようだがね」
わたしは次の言葉が出なかった。
どうして、どうしてこんなに動揺しているの?
あの男の人が碇君の親だと聞いただけなのに。
「さて、昼間でまだ少し間がある。休んではどうかね?」
「そうですね。差し支えなければ」
おかあさんはやっぱり少し辛そうに見えた。
「そうするといい。では、案内しよう」
わたしたちが案内されたのは病院内の喫茶室だった。
てっきり地下施設に戻されると思ったのだけれど、拍子抜けした気分だった。
おかあさんは出されたコーヒーに一口だけ口をつけると、窓の外に目をやったまま考え込んでしまった。
「おかあさん?」
「…なに?レイ」
「何考えてるの?」
「べつに何も。ぼんやりしてるだけよ」
「そう?おかあさん、ここに残ろうと考えてるでしょう?」
「…そんなことないわ」
でも、おかあさんの表情がほんの少し変わったような気がする。
「さっきの人…」
「え?」
おかあさんが怪訝そうな顔になる。
「わたし、会ったことがあるような気がする。碇君のお父さんだからという理由じゃなくて」
「そう」
「おかあさんは?」
わたしはおかあさんがひどく緊張した顔をしていたことを思い出していた。
「…」
「会ったこと、思い出したの?」
「いいえ。でも、どきっとしたことは確かだわ。きっと因縁深い人なんでしょうね」
「おかあさんの恋人だったとか…」
その言葉はわたしの口からするっと出てしまったのだけど、おかあさんはさっと顔色を変えてしまった。
「バカなこと言わないの」
「ごめんなさい」
反射的に謝ってしまった。
おかあさんはしばらくぎゅっと目をつぶっていたけれど、わたしに向き直ったときには穏やかな顔をしていた。
「もしかしたら、そうだったのかもしれないけれど。それももう終わったことだと思うわ」
「どうして?」
「なんとなく。そんな気がするの」
「そう…」
おかあさんはコーヒーに目を落としたままだった。
わたしにはおかあさんが何か一心に考えているとしか見えなかった。
お昼間近になって、青葉さんが呼びにきた。
「所長が待っております。そろそろおいでいただけますか?」
「すぐに参ります」
おかあさんは特に気負った様子もなく立ち上がった。
「レイ。あなたはここで待たせてもらう?」
「いっしょに行くわ」
青葉さんはわたしに目を向けたけど、何も言わずに先に立って歩き出した。
もう一度エレベーターに乗り、地下へ向かう。
今度案内されたのは、最初に連れて行かれた会議室みたいな部屋だった。
「待っておったよ。決心はつけてもらえたかね?」
冬月さんはデスクに座ったまま、わたしたちを迎えた。
「はい。お待たせして申し訳ありませんでした」
「いや。なに」
冬月さんはおかあさんとわたしに椅子を勧めた。
「さっそくで悪いが、返事を聞かせてもらいたい」
「その前に確認しておきたいのですが」
「何かね?」
「ここでわたくしがどのような返事をしようと、受け入れていただけますでしょうか?」
「それは、この話を断るという意味かね?」
「その意味も含めてです」
「そうだな…」
冬月さんは少し考え込む素振りをした。
「儂としては赤木博士が断るとは思っておらなかったのでな。しかし、無理強いをしても無駄であろうと思っておるよ」
「寛大なお言葉、ありがとうございます」
「いや。博士に協力してもらうなら、気持ちよく協力して欲しい。それだけだよ」
「脅迫とかはなさらないのですね?」
おかあさんは皮肉な笑みを浮かべていた。
「赤木博士のサボタージュのほうが、よほど恐ろしいからな」
冬月さんは笑いながらそう言った。
「買いかぶりですわ」
「そんなことはなかろう」
「それでは、お返事させていただきます。今回のお話しはお受けできません。わたくしはすでに現役を退いた人間です。今更呼び戻すほどの価値があるとは思えません。レイに関しては…」
おかあさんはわたしに少しだけ目を向けた。
「レイにはエヴァを忘れて生きていって欲しいと思います」
冬月さんは黙っておかあさんを見つめていた。
「それが最終的な回答かね?」
「申し訳ありませんが…」
冬月さんとおかあさんはしばらくの間睨み合っていたけれど、冬月さんはため息をついて目をそらした。
なぜか冬月さんの身体が縮んだような感じがしてしまった。
「わかった。博士の要望に添うことにしよう」
冬月さんはテーブルの電話を取り上げると、誰かと話し始めた。
「私だ。赤木博士がお帰りになる。自宅まで送り届けてくれんか」
電話の向こうの相手は何か言っているようだったけれど、冬月さんは取り合わなかったようだった。
「おかあさん?」
わたしの問いかけに、おかあさんは笑みを浮かべただけだった。
わたしは全身から力が抜けた気分だった。
おかあさんは残ると言い出すとばかり思っていたから。
わたしは部屋に現れた知らない男の人の案内で車に案内された。
車に乗り込むと、なんだか急に疲れが出たような気がしてしまった。
車が動き出してしばらくすると、わたしはシートにもたれて眠り込んでしまった。
「レイ、レイ、起きなさい」
肩を揺り動かされて目が醒めた。
「…ん?」
「家に着いたわ。降りなさい」
車は見慣れたアパートの前に停まっていた。
わたしが降りると、車はすぐさま走り去ってしまった。
なんだかずいぶんあっさりしている。
秘密を守る約束とか、させられるかと思っていたのに。
「お腹空いたわね」
おかあさんはアパートに入りながら言った。
言われてみれば、お昼抜きだったし。
「ご飯をしかけてないし、どこかに食べに行きましょうか?」
「外に?お金はだいじょうぶなの?」
「そのくらいならあるわよ」
おかあさんは笑いながら言った。
「レイの好きな物にしましょう。またラーメンかしら?」
「もう、そればっかりじゃないわ」
でも、おかあさんと最初に一緒に食べたのがラーメンだったせいか、ラーメンって特別な気がするけど。
「はいはい。じゃあ、何がいいかしらね…」
そう言いながらおかあさんはアパートを出ると、街に向かって歩き始めた。
わたしはそんなおかあさんの隣に並ぶと、おかあさんの手を取った。
「なあに?」
「だめ?」
「いいわよ」
おかあさんは笑いながら手を握り返してくれた。
次の日の朝、わたしはいつもより頭が重いような気分で目を醒ました。
「んー」
手を伸ばして枕元の時計を探る。
片目を開いて目の近くに寄せた文字盤を見て、わたしは叫び声を上げた。
「たいへん!遅刻だわ。おかあさん?!」
隣の布団を見る。
え?
おかあさんの姿がない。
「もう。起きてるんなら起こしてくれたって…」
ぶつぶつ言いながらも、着替えをしてキッチンに入る。
テーブルの上には食器が並んでいるし、コンロにはお鍋がかけてあるのに、おかあさんの姿がない。
「おかあさん?」
トイレかと思ってバスルームを覗いたけれど、そこにも姿はなかった。
「変ね…」
キッチンに戻ったわたしは、テーブルの上に封筒が置いてあるのに気がついた。
表に、レイへ、と書いてある。
「おかあさんから?」
わたしは奇妙な胸騒ぎを感じながら封筒から便箋を取り出した。
「レイへ
黙って家を出てごめんなさい。
いろいろ考えた結果、私はNERVに行くことにしました。
やはり私は過去を清算しなくてはならないと思えるから。
レイをだますことになって、ご免なさい。
でも、レイにはふつうの生活を送って欲しいの。
私のわがままだということはわかっています。
どうか、許して。
当座の生活費は同封したカードを使ってください。
全部が終わったら、必ず帰ります。
それまで、待っていてもらえると嬉しいけれど。
どうか、元気で。
リツコ」
「おかあさん…!」
わたしは便せんを握りしめたまま意味もなくキッチンの中を見回した。
その拍子にカードが封筒から滑り落ちた。
「ばか…!」
カードを拾いながら、わけも分からず猛烈に腹が立ってきてしまった。
それが、黙って家を出ていったおかあさんに向けたものだったのか、理不尽な大人たちに向けたものだったのかわからなかったけれど。
しばらくカードを見つめていたわたしは、奥の部屋にとって返した。
急いで身支度を終えると、カバンを手にキッチンに戻った。
ちらっとテーブルの上に並んだお茶碗とおかずに目を向ける。
わたしとおかあさんのお茶碗が向かい合わせに伏せてある。
その瞬間、わたしは気がついた。
おかあさんは戻ってくる気だということを。
でも…。
このままだと、おかあさんは絶対戻ってこれない。
それは奇妙な確信だった。
わたしは意を決するとカードを手に取った。
靴を突っかけてドアを開く。
「やあ。おはよう」
わたしはドアの外に立つ人影に目を見開いた。
「あなたは?」
わたしに柔らかな笑みを向けながら立っていた少年の目は血の色を、髪の毛は銀色をしていた。
「僕は渚カヲル。君と同じモノだよ」
「わたしと、同じ…?」
「おいおい説明するよ。それより、NERVへ行くのだろう?早くしたほうがいい。そうしないと手遅れになる」
「手遅れ?どういうこと?」
「君がいないと、彼らはシンジ君を使おうとするだろうからね」
「シンジ…碇君?!」
全身の血が逆流した気分だった。
どうしてわたしをあっさり帰したのか、その理由がやっとわかった気がした。
「シンジ君はもうエヴァに乗るのには耐えられない。止めさせないと…」
「それ以上言わないで!」
彼がとんでもなく不吉なことを言いそうな気がして、私は大声を出してしまった。
「わかった。とにかく急ごう?」
「え、ええ…」
わたしは先に立って歩き出した少年の後ろ姿に不信感を抑えることができなかった。
でも、彼の言うことは真実のような気もした。
わたしはドアにカギをかけると、少年を追うために足早になった。
続きます