わたしは隣を歩く少年をちらちらと盗み見ていた。
「どうしたんだい?僕が気になるかい?」
少年、カヲルと言ったはず?は、薄い笑みを浮かべながら問い返してきた。
「気にならないはず、ないわ」
「そうだろうね」
彼は大して気にする風でもなく言った。
「後でちゃんと説明するよ。まず電車に乗るのが先だね」
「電車?」
「まさか歩いて行けるとは思わないだろう?」
「…そうね」
確かに松代は遠い。歩いて行ける距離ではないのはわかるけど。
「それに、電車に乗ってしまえば監視の目もごまかせるしね」
「え?」
わたしは少年を見、それからあたりを見回してしまった。
「やめたまえよ。きみが気づくような尾行をするはずないだろう?」
わたしは少年に目をもどした。
彼は相変わらず笑みを浮かべたままだったけれど、私にはバカにされているように思えてしまった。
「怒らないでくれたまえ。僕はただ注意しただけなんだからね」
それはわかるけれど、なんとなく不快な感じがしてしまう。
「彼らを、NERVを甘く見ないほうがいい」
よく見ると、彼の目は少しも笑っていなかった。
「彼らは一度ひどい目に遭っている。すべてに疑り深くなっていても無理ないと思うね」
彼が何を言おうとしているのか気になったけれど、なぜか口に出して聞く気にはなれなかった。
なんだかとんでもなく恐ろしいことを告げられるような気がしたから。
わたしはNERVの会議室で見せられたビデオを思い出していた。
碇くんのエヴァと戦う白いエヴァたち。
でも、なんだかそれだけじゃないような気がする。
「こっちだよ」
促されて、わたしははっと我に返った。
いつの間にかわたしたちの前後をたくさんの人たちが歩いている。
みんな駅へ向かう人たちらしい。
彼は人の流れに乗るように、歩みを早めた。
目の前に駅舎が迫ってくる。
わたしが初めておかあさんに出会った第二新東京駅だった。
彼は券売所の自動販売機で切符を二枚買った。
渡された切符を見て、わたしは首を傾げてしまった。
その切符の行き先は松代ではなく、逆方向の諏訪方面となっていた。
「これ、違うわ」
「いいんだよ。それで」
彼は相変わらず薄い笑みを浮かべたままそう言った。
「まっすぐ向かえば簡単に捕まってしまうよ。一本道だからね。まず尾行をまかないと」
わたしはまじまじと彼の顔を見つめてしまった。
「本気で言ってるの?」
「そうだとも。彼らは、きみを恐れている。憎んでいると言ってもいい」
「え?どうして?」
「きみが何者で何をしたのか、彼らは忘れてはいないだろうからね」
「わ、わたし?」
「そうだよ。きみは自分の正体に気づいてないのかい?」
わたしは黙り込んでしまった。
自分の正体…。
知りたいような、でも、知りたくないような気もする。
確かにわたしには変な力があるかもしれない。
でも、それがそれほど大変なことなの?
それとも、赤い目に蒼銀の髪の毛というわたしの形質に秘密があるの?
わたしと同じような赤い目をした少年にを見ているうちに、急に不安になってきてしまった。
「とにかく、電車に乗ろう。すべてはそれからだよ」
わたしの不安を知ってか知らずか、少年は表情を変えずにそう言った。
わたしは黙って頷くしかなかった。
湖の見える駅でわたしたちは列車を降りた。
大きな湖。諏訪湖だと思う。
「さて。ここから乗り換えだよ」
いったんわたしを駅から出して、彼はまじめくさった顔で言った。
「今度はどこへ行くの?」
「ぐるっと回って小諸へ出るんだ」
「小諸?」
「野辺山を越えるからちょっと時間がかかると思うけどね」
「野辺山?」
「きみがエヴァで四号機と戦った場所さ」
わたしには彼の言うことの意味がわからなかった。
ただ、彼の言うことは事実のような気がしただけだった。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
彼は軽く口の端をゆがめた。
「知りたくもないことを教えてくれたおせっかいがいてね」
そう言ったきり、彼は再び券売所へ向かった。また切符を買うらしい。
「あ、お金」
「後で精算してくれたまえ」
彼は後ろ姿のままひらひらと手を振ってみせた。
わたしは軽くため息をつくと、目を湖面に向けた。
ひっそりと静かな湖面。
天気があまり良くないせいか、灰色にくすんでいるようにも見える。
わたしはぶるっと身を震わせてしまった。
寒さのせいだったのか、それともそれ以外の何かのせいだったのか、はっきりしなかったけれど。
「すぐに列車が来るよ。急いで」
彼の言葉に、わたしは駅に向かって小走りになった。
今は彼に従うしかない。
今のわたしにはどうしていいのか、何の考えも浮かばないのだから。
もう一回乗り換えた列車はだいぶ空いていた。
ボックス席にはわたしと彼だけだし、車両の中にも中年の女性や男性が数人いるだけだった。
列車は両側に木々の茂ったゆるい坂を上っていく。
わたしは窓から過ぎ去っていく景色をぼんやりと眺めていた。
「シンジくんのことが心配かい?」
斜め向かいに座った彼が口を開いた。
「ええ」
「そうだろうね」
彼はまたよくわからない笑みを浮かべていた。
なぜかわたしにはその笑いが気に障ってしまった。
「なんで笑うの?」
「え?僕かい?」
「そうよ」
「いや、嬉しくてね」
わたしは目を細めて彼を窺ってしまった。
「きみが今でもシンジ君を好きでいてくれることが嬉しくてね」
今でも?
わたしは碇君を知っていたの?
好きだった?
どうしてそんなことをこの目の前の少年が知っているの?
「あなたはわたしを知ってるの?」
「きみは本当に記憶をなくしているんだね?」
わたしの問いには答えず、彼は少し悲しそうな顔をした。
「それが、いけないことなの?」
「そうは言ってない。むしろ、喜ぶべきことだと思うよ」
「どういう意味?あなたはわたしの過去を知っているの?」
「あらましはね」
相変わらず、彼は薄い笑いを浮かべたままだった。
「聞きたいかい?」
わたしはまじまじと彼の顔を見てしまった。
彼がわたしの過去を知ってる?本当に?
「いいえ」
なんだか彼にわたしの過去を聞くことはためらわれてしまった。
そう。
もし、誰かにわたしの過去を告げられるとしても、それは彼であって欲しくなかった。
わたしがその言葉を受け入れられる相手は、たぶん…。
「賢明だね。それに…」
彼は真面目な顔になって言った。
「きみも過去にしばられるべきではない。縛られるのは僕でたくさんだ」
「あなた?」
彼はまた薄い笑みを浮かべていた。ただ、それはどこか悲しみのともなった笑みに思えた。
そういえば、わたしは彼のことを何も知らない。
「あなたのことを話して」
「僕かい?」
「わたしはあなたのことを何も知らない。あとで説明すると言っていたわ」
「そうだったね」
彼は苦笑を浮かべたようだった。
「わたしはあなたの言うとおりにしているもの。理由を説明してもらえないと、不安になるわ」
「それはそうだね。僕は…」
彼は窓の外に目を向けてゆっくりと話し始めた。
彼の話は信じ難いものだった。
彼はかつて碇君たちが戦っていた相手の『使徒』だったと言った。
そして、何より信じがたかったのは、彼は一度碇君によって殺されたということだった。
「冗談を言わないで」
わたしは腹立たしい思いに駆られてしまった。彼の言葉を鵜呑みにしていた自分にも腹が立ったし。
「わたしがそんな話を信じると思うの?」
「信じる信じないはきみの勝手だが、事実なんだよ」
「だったら、死んだあなたがどうしてここにいるの?」
「それはだね…」
彼はじっとわたしの目を見つめてきた。
「綾波レイ、きみのせいだよ」
わたしは息をのんでしまった。
「ど、どうしてそんなことを言うの?」
なんだかひどく不条理なことを言われているような気がする。
でも、心のどこかで彼の言葉を肯定している部分があった。
わたしは彼を知っているの?
「どうして?僕は事実を言ったまでなんだよ」
「うそ…」
「信じたくないのかい?それならそれでいいけれどね」
渚君はどこか悲しそうな目でわたしを見ながら言った。
「だって、それならどうして碇君を助けるなんて言うの?碇君に殺されたのが本当だとしたら、憎んでるのではないの?」
「とんでもない。僕はシンジ君には感謝してるんだ」
「感謝?」
「僕を自由にしてくれたんだからね。そして…」
彼は優しそうな笑みを浮かべていた。
「きみはもう一度僕に肉体をくれたんだ」
「…あなたの言うことがわからない」
彼はふっと笑った。どこか寂しそうな笑みだったけれど。
「シンジくんもそう言ったっけな」
「碇君?」
「僕はシンジ君にわかって欲しかったんだけどね」
「わかる?」
「僕を理解してくれたのは綾波レイ、きみだけだった」
彼はわたしの目を見つめながらそう言った。
わたしと同じ真紅の目で。
わたしは奇妙なめまいを感じていた。
松代に着いた時には、すでに夕闇が迫る時間になっていた。
本当ならもっと早く着くはずだったけれど、彼はあちこちで下車して時間を潰していた。
「どうしてこんなことをしてるの?」
さびれた公園でブランコに乗っている彼を問いつめたりしたのだけど。
「あわててはいけないよ。タイミングを計ってるのさ」
「タイミング?」
「彼らはすでにきみが家を出たことを知っているはずだ。列車に乗ったことも知っている。普通だったらとっくに着いて良い頃だということもね」
「駅で待ちかまえてるっていうこと?」
「そう考えたほうがいいだろうね」
「でも、冬月さんはわたしを黙って帰したわ」
「彼の意向が全てとは限らないよ」
「どういう意味?」
「彼がそれほど絶対権力を握っているとは限らないからね」
わたしの脳裏に病室で会った男の人の顔が浮かんできた。なぜ?
「とにかく、腹ごしらえをしよう。昔から言うだろう?腹が減っては戦はできない、ってね」
くやしいけれど、彼の言葉の正しさを認めないわけにはいかなかった。
何と言っても、わたしは朝から何も食べていなかったのだから。
そして今、わたしは夕闇の中に佇むピラミッド形の山を望んでいる。
「さて、それじゃあ行ってみようか?」
彼は軽い調子でそう言いながら歩き出した。
「どこへ行くの?」
わたしは彼に追いつくために小走りになりながら問いかけた。
「NERVの総合病院さ。もぐり込むならあそこからが適当だろう?」
「でも、もうこの時間じゃ閉まってるんじゃないの?」
「だからいいのさ。見舞客に紛れられるだろう?」
彼の言葉は本気かどうか信じにくかった。これだけ目立つ彼の容貌では、どうやっても見つかってしまうような気がしたけれど。
「変装、しなくていいの?」
「ん?僕がかい?」
彼は不可思議な笑みを浮かべていた。
彼はわたしの顔と髪の毛に目を向けてから肩をすくめてみせた。
「必要ないよ」
「どうして?」
わたしはまたしても苛立たしい気分になってしまった。
「病院に入るのはきみだけだからさ」
彼はさも当然という感じでそう言った。
どういうこと?
ここまで連れてきておいて、放り出すというの?
なんだか、すごく勝手なような気がする。
「あなたは、どうするの?」
「外で待つよ」
「どうして?」
「僕はあの施設に入れないからね」
彼はもう一度肩をすくめた。
「あの施設にはアンチATフィールドが張ってある。僕が入ったら、分解されてしまうよ」
彼はまじめくさった顔でそう言った。
「本当なの?」
「残念ながらね」
彼がウソをついているとは思いたくないけれど。
「わかったわ」
たとえ彼の言葉がウソであれ、わたしはおかあさんを連れ戻すつもりだったのだし。
だから、たとえ一人でも行ってみるしかない。
病院の玄関は意外にも賑わっていた。
夕刻になって仕事帰りの人たちが見舞いに来ているのかもしれない。
わたしはすんなりと病院の玄関をくぐって中に入った。
看護婦や事務員の姿はほとんど見えない。
確かにこれなら目につきにくいとは思うけれど。
わたしは建物の構造を確認するために配置図を探した。
幸い、配置図は壁の目立つところに貼ってあった。
「えーと、エレベーターは…」
確か、冬月さんは職員用エレベーターを使っていたような気がする。
わたしはエレベーターホールの場所を確かめると、あたりを一回見回した。
視線を感じたような気がするけれど。まさか…。
わたしは早足でエレベーターホールに向かった。
エレベーターホールには見舞いの人が何人かエレベーターを待っていた。
やってきたエレベーターに乗り込まないわたしに奇異の目を向ける人もいたけれど、かまわず職員用エレベーターの呼び出しボタンを押した。
しばらく待って、ドアが開いた。
エレベーターに乗り込むと、さすがに緊張してしまった。
でも、今さら引き返すわけにはいかない。
わたしは地下へ向かうボタンを探した。
「ない?」
一見したところ、エレベーターのボタンは一階から上のものしかなかった。
なぜ?
わたしは冬月さんがどうしていたのか、いっしょうけんめい思い出そうとした。
たしか、下のほうのボタンを押していたはず。
わたしはボタンの下に金属プレートのフタがあるのに気がついた。
「開かない…」
フタには取っ手とか、指のかかるような部分がなくて、表面がつるつるしている。
簡単には開きそうもない。
何か特別なカギか何か必要なのかもしれない。
わたしは動かないエレベーターの中で困惑してしまった。
まさかいきなり挫折するなんて。
でも、エレベーターが動かないのではどうしようもないし。
外に階段か何かあるかもしれない。
諦めて外へ出ようと思ったけれど、一度だけ試してみることにした。
フタ全体に手のひらを押しつけて、そのまま動かしてみる。
ぱちっ!
何か音がしたと思ったら、するっとフタが下へずれてしまった。
「え?」
わたし、そんな怪力のはずないのに。
でも、とにかく開いたのだし。
わたしは現れたボタンを少しためらってから押し込んだ。
まさか、降りたところで待ちかまえてる、なんてことないと思うけれど。
エレベーターはすぐに下降を始め、わたしはインジケーターの表示が変わっていくのを息を詰めて見つめていた。
続きます