エレベーターがどんどん降りて行くにつれて、わたしは不安が増してくるのを感じていた。
不安?
そう。確かに不安。
一人でわけもわからない場所に飛び込んでしまったのだし。
でも、この不安はそれとは少し違うような気がする。
どちらかというと、焦燥感に近いような気がする。
どうしてこんな気持ちになるのか、わからないけれど。
おかあさんが心配?
それは間違いない。
碇君のことが心配?
あの少年が言ったことが、頭の隅に引っかかってるし、それもある。
でも、この身をとろ火で焼かれるような感じは何?
チーン!
「え?」
考えにふけっていたわたしは、いきなりドアが開いてびっくりしてしまった。
目の前に白衣を着た男の人が立っている。
「あ…」
男の人はじろっとわたしに一瞥をくれただけで、身動きしなかった。
「…」
わたしはどうしていいのかわからず、固まってしまっていた。
「早く出てくれ」
「は?」
「早く出てくれ。乗れないだろうが」
あわててエレベーターを出たわたしは、ようやく最下階に着いたことに気がついた。
男の人はエレベーターに乗ると、さっさと上がっていってしまった。
「…ふぅ」
どきどきする胸を押さえながら、わたしは廊下を歩き始めた。
ほんとにびっくりしたわ。
でも、あんまりわたしに感心を払わなかったみたいだけど。
どうして?
廊下の角から今度は若い女の人が現れた。
思わず身をこわばらせてしまう。
女の人はわたしに目を向けたけど、そのまま行きすぎてしまう。
「?」
どういうこと?
わたしみたいな中学生がうろうろしていても、誰も注意を払わないなんて。
こんなに不用心でいいの?
あの少年はかなり厳重なようなことを言っていたけれど、全然違うように感じる。
気がつくと、見た憶えのある廊下に出ていた。
このまま進めば、あの人のたくさんいる広い部屋に出てしまう。
今のわたしは不審人物なのだろうし、そんなわたしがのこのこと現れれば、捕まってしまうのは目に見えてる。
でも、どうやっておかあさんを探したらいいのかわからないし。
そう思っている間にもわたしは歩き続けて、見覚えのあるドアの前に立ってしまった。
どうしよう?
わたしはドアの前で立ちすくんでしまった。
でも、入らないほうが良いような気がする。
とにかく、おかあさんを探してみよう。
そう思って振り返ったわたしは、見覚えのある女性に向き合ってしまった。
「入らないの?」
その女の人、伊吹さんは穏やかな声でそう言った。
「あ…」
どうして、ここにこの人がいるの?
「せっかく来てくれたのでしょう?遠慮しないで」
わたしはまじまじと伊吹さんの顔を見つめてしまった。
「捕まえないんですか?」
「どうして?」
伊吹さんは不思議そうな顔をしていた。
「あなたのほうから来てくれたのに、なんでそんなことをする必要があるの?」
「え…?」
わたしは伊吹さんの言うことの意味がよくわからなかった。
わたしはおかあさんを連れ戻しに来たつもりだったのに。
「入って。所長がまだいるはずよ」
伊吹さんはドアを開けると、わたしを手招きした。
わたしはぎこちない動きで部屋の中に足を踏み入れた。
部屋の中は前回入ったときに比べて、人影は少なかった。
伊吹さんは真ん中の通路をどんどん歩いていく。
わたしは頭が混乱したまま、伊吹さんの後に続いていた。
なんだか変。
こんなはずじゃなかったのに。
それにしても…。
わたしは前を歩く伊吹さんの後ろ姿に注意を戻した。
なんとなく、彼女からはうきうきした感じを受ける。
何がそんなに楽しいのかしら?
部屋を横切った伊吹さんは、足を止めてあたりを見回した。
「あら?おかしいわね。確かここにいるはずなのに」
伊吹さんは机の上の電話機を取ると、誰かと話し始めた。
「伊吹です。所長はそちらに行っていますか?…ええ、急用なんですが…」
伊吹さんは受話器を耳に当てたまま、私を振り返った。
「あ、伊吹です。すみません、お忙しいところ。ええ。レイちゃんが見えてます。…はい。…はい」
伊吹さんは受話器を置くとため息をついた。
「ごめんなさい。今、実験室にいるようなの。来て欲しいそうなんだけど、いいかしら?」
「…ええ」
でも、それよりおかあさんは?
「ありがとう、こっちよ」
歩きだした伊吹さんの背中に、わたしは話しかけた。
「おかあさんはどこですか?」
伊吹さんの肩がぴくっと震えた。
「会いたいの?」
「はい」
「い、今すぐでなくちゃだめ?」
「はい」
「今、ちょっと先輩は手が放せないの。後でいい?」
伊吹さんの様子、なんだか変。
「もう仕事をしているんですか?」
「いえ。そうじゃなくて」
「じゃあ、どうしてるんです?」
「ちょっと休んでもらってるの」
「休んで?そんなに疲れるようなことしたんですか?」
「そうじゃないのよ。ただ、ちょっと今眠っているから…」
眠ってる? この時間に?
おかあさんは宵っ張りの人だから、この時間から眠るなんてことはないはず。
いったいどうしたの?
何か、されたの?
急に不安になってきてしまった。
そういえば、ここの人たちはおかあさんの記憶を取り戻すようなことを言っていた。
まさか、そのせいで何かあったんじゃ…。
「おかあさんに会わせてください」
「だから、それはもうちょっと後ではだめ?まず所長に会って欲しいの」
所長? 冬月さんに?
「こちらよ」
伊吹さんは廊下が行き止まった先でドアを開いた。
重い音がしてドアが開く。
伊吹さんは先に部屋に入って、手招きした。
「入って」
部屋の奥からは、何か機械がうなるような音がする。
なんとなく嫌な感じもするけれど。
今さら逃げるわけにもいかないし。
それ以前に、わたしは逃げるつもりなんかないのだし。
部屋の中はずいぶんと広い感じだった。
ただ、何に使うのかわからないような機械がところ狭しと並んでいるし、奥には天井高くそびえるような機械もあるから狭苦しい感じもする。
部屋の天井そのものもかなり高い。5メートル以上あるかもしれない。
そして、何人もの白衣を着た人たちが動き回ってる。
その中に、一人だけ茶色いスーツを着た人が立っていた。
「やあ、レイ。ようやく来たな?」
白い髪の毛。背が高くて、痩せて顔。冬月さんに間違いない。
「おかあさんはどうしたんですか?」
「だいじょうぶだ。疲れたので、今は眠っているだけだよ」
冬月さんは穏やかな顔でそう言った。
「会わせてください」
「今は会っても仕方ないだろう。ぐっすり眠っているはずだからな」
「それでもいいです」
とにかく、おかあさんの顔を見たい。
そうすれば、安心できるような気がするから。
「そうか」
冬月さんは少し考えてから、傍らの伊吹さんに振り向いた。
「伊吹くん。すまないがレイを赤木博士のところに案内してくれんかね」
「よろしいのですか?」
伊吹さんは初めて心配そうな表情を浮かべた。
「ああ」
冬月さんの言葉に、伊吹さんは少し不満そうだった。
「じゃあ、レイちゃん。こっちよ」
伊吹さんの表情が気になったけれど、伊吹さんが歩き出したのであわてて後を追いかけた。
あの表情はなんだったのだろう?
「ああ、レイ」
冬月さんの声がしたので、わたしはなにげなく振り返った。
「はい?」
「シンジ君には会うかね?」
その言葉は、まるで電撃のようにわたしの身体を貫いていった。
わたしが案内されたのは、病室のような雰囲気の広い部屋だった。
真ん中にベッドが一つだけ。
そのベッドの上でおかあさんが眠っていた。
そっとベッドに近づいてみる。
おかあさんは規則正しい呼吸をしていたし、苦しそうな表情もしていなかった。
そんなおかあさんの様子に、わたしはほっとしたのだけれど。
わたしは、そわそわして落ちつかなかった。
もちろん、原因は冬月さんの言葉だった。
碇君に会える?
そう思うだけで、わたしの心は自分でも信じられないほど動揺していた。
碇君に会いたい。
でも、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
わたしはおかあさんの顔を見つめたまま、自分の心を持て余していた。
「わたし、どうしたらいいの?」
おかあさんは答えてくれなかった。
ただ、穏やかな寝顔を見せているだけだった。
「もういいかしら?」
入り口のドアのところに立っていた伊吹さんが言った。
ずっとそうして待っていたらしい。
「おかあさんに、何をしたんですか?」
「どうしてそんなこと言うの?」
「おかあさん、この時間に眠る人じゃありません。よっぽど疲れたんじゃ?」
「…」
わたしは伊吹さんの目を見つめた。
「おかあさんの記憶を取り戻そうとしたのね?」
「…」
伊吹さんは黙ったまま、目をぱちくりさせた。
やっぱり。
「うまくいったの?」
「だいじょうぶよ」
わたしの質問に答えてない。
「まだわからないのね?」
「医師(せんせい)はうまくいったって言ってたわ」
わたしは伊吹さんを見つめる目を細めた。
伊吹さんはわずかに後ずさった。
「あ、危ないことはなんにもしてないわ。軽い睡眠薬と催眠術を使っただけよ」
「…」
「わたしが先輩に危険なことをするはずないじゃない!」
ひきつった顔の伊吹さんをしばらく見つめてから、わたしは目をそらした。
「碇君」
「は…?」
「碇君に会わせて」
わたしは一人で廊下を歩いていた。
先ほどのおかあさんのいたフロアから何層かエレベーターで降りたフロアだった。
伊吹さんが一緒に来ると言ったけれど、私は丁重に断った。
場所さえわかれば、一人で会いに行ける。
わたしはそう言い張った。
伊吹さんは困った顔をしていたが、最終的には冬月さんに許可をもらうことができた。
窓もない壁だけが続く、そっけない廊下を歩く。
「ここね」
わたしが足を踏み入れたのは、だだっ広い倉庫みたいな空間だった。
足下からすぐに大きなプールのようになっている。
赤茶色い液体が満たされたそのプールの中央に、白い円筒形をした大きな茶筒のようなものが立てかけられている。
その円筒のに続くブリッジの上に、向こうを向いている少年の姿があった。
見覚えのある白いシャツに黒い学生ズボン。
周囲で立ち働くオレンジ色の作業服を着た作業員の中で、その姿はいやに浮き立って見えた。
碇君…。
その姿を見ただけで、私の胸はぎゅっと締め付けられたような気がした。
わたしは吸い寄せられるように、碇君めざして歩み寄っていった。
目を碇君に固定したまま、ブリッジの上に上がる。
足下がぐらぐらするようでおぼつかない。
碇君は作業員らしい人と何か打ち合わせているようだった。
手に持ったファイルをめくりながら、何か質問しているらしい。
近づくわたしの姿に気づいたのか、作業員がわたしに目を向けた。
怪訝そうな表情を浮かべている。
そんな相手の様子に、碇君はくるっと振り返った。
「赤木…?」
碇君はぽかんとした表情を浮かべていた。
「碇君」
「どうして赤木がこんなとこに?…まさか?」
みるみる碇君の表情が変わっていった。
「赤木もここの関係者だったの?!」
「ちがうわ!」
傷ついたような碇君の顔に、わたしは思わずそう叫んでしまった。
「じゃ、なんで?」
「…!」
わたしは何と答えていいかわからなくなってしまった。
「ここの関係者じゃなかったら、どうしてこんなとこに?」
「ちがう。わたし、ここの人たちと関係ない…」
急に視界がぼやけてきてしまった。
碇君に責められるなんて。
どうしていいか、わからない。
「あ?ご、ごめん。そんなはずないよね?赤木はずっと第二新東京にいたっていうし」
急に碇君は慌てたような声をだした。
わたしは涙が頬を伝うのを感じていた。
どうしてこんなに悲しいの?
碇君に、ほんのちょっと問いつめられただけで泣いてしまうなんて。
「あ、赤木、泣かないでよ」
碇君はおろおろしたように、わたしの肩を抱いてくれた。
わたしは黙って首を振ることしかできなかった。
「ご、ごめん。泣かないで…」
「シンジ君、頼むから彼女をこんなとこで泣かせないでくれ」
碇君と話していた作業員の人がそんなことを言った。
「あ、赤木は彼女ってわけじゃ…」
「そうかい?彼女、心配そうな顔できみを見てたぞ」
「そ、そんな…赤木、どうしてここへ?」
「碇君に…、会いに…、来たの」
「え?」
わたしは碇君の顔を見つめた。
碇君の顔が少しゆがんで見えた。
あ、コンタクトがずれてる。
「エヴァに」
「え?」
「エヴァに乗ってはだめ」
「なんだって?!」
「エヴァにはわたしが乗るから」
「赤木?!」
わたしと碇君は、広い部屋の隅っこに並んでいた。
碇君は床に座り込んでいたけれど、わたしは立ったままだった。
わたしと碇君の間は1メートルくらい離れている。
それが今のわたしと碇君の距離を表しているように感じてしまう。
「じゃあ、赤木はおかあさんを連れ戻しに来たんだ?」
「ええ」
「赤木の母さんって、そんなにすごい人だったんだ。たまに名前を聞くことはあったけど」
「碇君が?」
「青葉さんや伊吹さんがたまに話しているのを聞いたことあるんだ」
「そう」
わたしは碇君に目を向けた。
碇君は床を見つめたままだった。
「でも、戻ってくれないかもしれない」
「どうして?」
「おかあさん、けじめをつけるつもりらしいから」
「けじめ?」
「おかあさんが、あのエヴァを…、作ったの」
「…」
「そのことで、きっと悩んでいたんだと思う」
「でも、それは必要だから作ったんじゃないのかな?」
「わからない。でも、おかあさんは自分の仕事を嫌っていたみたい」
「自分の仕事を、嫌う?」
「おかあさんも記憶をなくしていたの。でも、いろいろな記録が残っていて。それがなんだか良くないこともあったみたいで」
「だって、昔のことだろう?」
「おかあさんはそう思ってなかったみたい」
わたしは、おかあさんが時たま見せる寂しそうな笑顔を思い出していた。
「でも、だったらどうして止めようとしたの?」
「だって、おかあさんが今度エヴァに関わったら、間違いなく…死…死んじゃうもの」
「赤木?」
碇君は驚いたようにわたしに目を向けた。
「どうして?」
「わたし、おかあさんに死んで欲しくない」
「考えすぎじゃないの?」
わたしは両手で顔を被ったまま首を振った。
「きっとそうなる。そんなの嫌…」
「赤木?」
両肩に手を感じて、思わず手を降ろしてしまった。
目の前にぼやけた碇君の顔がある。
「碇く…」
わたしは次の言葉が出てこなかった。
心臓が急にものすごい勢いで動悸を打ち始めたのがわかる。
碇君は驚いたような顔をしていた。
「赤木、目、赤いんだ…」
「え?」
コンタクトが落ちてしまった?
「コンタクト、してたんだ?」
「変でしょう?だから…」
「そんなことない」
碇君はじっとわたしの顔を見つめている。
「…知ってる」
「え?」
「赤木のこと、ずっと前から知ってるような気がする」
「碇君?」
わたしも碇君の顔を見つめた。
優しさの中に強さを秘めた瞳。
女性的ともいえるけど、精悍さも感じる顔立ち。
「わたしも、そう思う」
知りたい。
わたしと碇君がどんな風に知り合っていたのか。
「碇君…」
「赤…、レイ…」
碇君の口調に、なぜか笑みが浮かびそうになってしまった。
いつの間にかわたしと碇君は両手を握りあっていた。
「わたし…」
わたしの胸の中に熱い思いがふくれあがってくる。
「レイ?」
「わたし」
そう。この思いは…。
「碇君を守るわ」
「レイ…、綾波…?」
碇君は不思議そうな顔でわたしを見つめながら言った。
綾波?
なに?この言葉。
でも、聞いたことがあるような?
わたしの名前?
そうなの?
「碇君?」
どうしてそんな名前で呼ぶのか聞いてみようと思った。
ビィーッ!ビィーッ!
その瞬間、けたたましい警報音が広い部屋中に響き渡った。
<ケージに侵入者!ケージに侵入者!総員第一種警戒態勢!>
わたしと碇君はぎょっとなってスピーカーを振り仰いだ。
続きます